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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
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翌日、定時を過ぎたころだった。
「ついて来い」
ディトがそれだけ言って歩き出した。
開発室の奥、さらにその先の搬入口を抜け、ほとんど誰も来ない倉庫棟へ向かう。照明は半分しか点いておらず、通路の空気はほこりと布の匂いで重かった。
「どこへ」
「うるさい。足音を立てるな」
「足音は勝手に出ます」
「抑えろ」
無茶を言う。
それでも、ディトの背中がいつも以上に固いことだけは分かった。
倉庫の一番奥に、小さな南京錠のついた扉があった。彼は鍵を差し込み、ためらいなく開ける。
中には、段ボールとラックがぎっしり並んでいた。箱には古い管理番号と赤字の印。
中止。保留。再検討。廃棄待ち。
「失敗作の墓場だ」
ディトは無愛想に言った。
「だが、全部が失敗だったわけじゃない」
彼が一つの箱を下ろす。
ふたを開けた瞬間、クリストルンは息を止めた。
布の色は少し褪せている。けれど、丸い耳の角度も、首元のふくらみも、見覚えがあった。
「……椿」
古いくまの試作品が、静かにこちらを見ていた。
クリストルンはそっと持ち上げる。驚くほど軽い。けれど、掌に触れた縫い目に、胸がきつく締まった。
耳の裏の縫い方が、父と同じだ。
細かく、丁寧で、でも少しだけ糸を遊ばせて、指の腹にやわらかく当たる縫い目。
「これ……お父さんが」
「ああ」
ディトは短く答えた。
「当時の現場で、誰より手が良かった」
クリストルンの喉が鳴る。
「どうして残ってたんですか」
「捨てられなかった奴がいたからだ」
「誰が」
「今それを聞くな」
くまの背中を撫でると、中でかすかに硬い感触がした。
音声部品を入れるはずだった場所かもしれない。
完成の一歩手前で止まった夢が、そこにそのまま閉じ込められている。
「おまえの父親の仕事は、ちゃんとあった」
ディトは壁にもたれたまま言った。
「誰かが消したがっても、物は残る」
クリストルンは、くまを抱きしめた。
軽いはずなのに、腕の中で涙が出るほど重い。
「証拠になりますか」
「なる。だが、それだけじゃ弱い」
「それでも、あります」
ディトは返事をしなかった。けれど、扉を閉める前に一度だけ言った。
「だから持って帰るな。ここで見たことを、まず書け」
クリストルンはうなずいた。
父の仕事が、確かにここにあった。
その事実だけで、足元が少しだけ強くなる。
同時に、これを見せたとき父がどういう顔をするのか、考えたくない気持ちも芽生えていた。