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公開上演の当日が来た。
朝から空は重かった。満月の夜だというのに、昼のうちは雲が低く垂れこめ、川の色まで少し暗い。橋の下では朝早くからホレが動線を貼り直し、ミゲロが仮設の支えを増やし、グルナラが雨避けの資材の数を何度も確かめていた。
「このテープ、足りる?」
ハルティナが抱えてくる。
「足りなくても足りさせる」
ホレが言う。
「そういう日」
モルリは客席案内の札を持って走り回り、ヌバーは緊張すると余計しゃべる癖が出ていて、ヴィタノフに二度ほど「静かに」と目だけで制圧された。
パルテナはもうほとんど内側の人間みたいに動いていた。布を押さえ、台詞の最終確認に付き合い、モルリの暴走を止める。
アルヴェは少し離れた場所から様子を見守っている。もう指揮を執る立場ではないのに、逃げもせずそこにいる顔だった。
そして、サベリオは時計塔を見上げていた。
昨夜の継ぎは持っている。けれど本番まで絶対とは言えない。風が変わるたび、胸の奥の小さな不安も一緒に揺れる。それでも今日は、もう振り返らないと決めていた。
デシアが隣へ来る。
手には台本。けれど開いていない。
「少しだけ、いい」
彼女が言う。
サベリオは頷いた。
二人は橋の下の喧騒から少し離れ、時計塔の影が落ちる壁際へ移る。雨はまだ降り出していない。空気だけが、降る前の重さを抱えている。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
遠くでホレの声がする。モルリが何か落として、ヌバーが笑って、ミゲロが拾っている。いつもの橋の下の音が、今日は少しだけ急いで流れていた。
先に口を開いたのはデシアだった。
「私ね」
彼女は前を見たまま言う。
「ずっと、好きだった」
サベリオの呼吸が止まりかける。
デシアは続けた。
「最初は、あなたが誰かの夢をちゃんと支えるところ。声じゃなくても人を前へ押せるところ。たぶん、そういうのを見て、私は自分が書いたものを信じ直した」
サベリオは返事ができない。
今にも雨が落ちてきそうな空の下で、その言葉だけが妙に鮮明だった。
デシアは少し笑う。
「でも、それだけじゃなくなった」
視線を落とし、
「だから、本当は本番の前に言いたかった」
サベリオはようやく口を開く。
「……それ、今、聞いたら」
声が少し掠れた。
「たぶん、俺、舞台で何言うか飛ぶ」
デシアが目を丸くする。
ほんの一瞬のあと、堪えきれず小さく笑った。
「失礼」
「失礼じゃない。正しい」
サベリオも苦笑する。
「だから、その続きは」
彼はまっすぐ彼女を見る。
「終わったら聞く。ちゃんと」
その言い方は、逃げるためではなかった。今受け取ったものを軽くしたくないから、最後まで持って舞台へ上がるという顔だった。
デシアは、その顔を見て頷く。
「分かった。じゃあ、終わったら」
ちょうどその時、少し離れた所でモルリが両手を口に当てた。
「きゃー!」
ヌバーがすぐ反応する。
「何何何、今の空気何」
「聞いてない! 聞いてないけど何か起きた!」
ホレが額に手を当てる。
「本番前に騒がないで」
「無理! 今のは騒ぐ!」
モルリは一人で盛り上がり、ハルティナまでつられて笑い出す。パルテナは「うるさい」と言いながら口元を隠し、アルヴェは遠くから見ていて、ようやく少し肩の力を抜いた。
サベリオは照れたように視線を逸らした。
デシアも同じように逸らす。
けれど、さっきまでの言いかけた言葉は、ちゃんと二人の間へ残っていた。
その時、ぽつり、と一滴が落ちた。
橋の鉄へ当たる小さな音。
皆が同時に空を見上げる。
「来たね」
ジャスパートが言う。
待っていたものが、とうとう輪郭を持った声だった。
サベリオは深い時計を見たあと、橋の下を見回した。
騒がしい仲間たち。支える手。待っている舞台。終わったら聞くと約束した言葉。
全部を胸へ入れて、彼は一つ頷く。
「始めよう」
雨粒が二つ、三つと増えていく。
満月はまだ雲の向こうだ。
それでも、今夜ここで鳴らすべきものがあると、もう誰も疑っていなかった。