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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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翌朝、出社したクリストルンは、企画部の窓際でルチノに呼び止められた。
「今日、昼休みに少し時間あるか」
「あります」
「屋上へ来い」
言い方が指示なのに、どこか落ち着かない。クリストルンは首をかしげつつ、約束の時間に屋上へ向かった。
春の風が少し強い。
フェンスの向こうに広がる町を見ながら、ルチノは紙の束を持って立っていた。
「父の書庫を見た」
開口一番にそう言われ、クリストルンは目を見開く。
「もう?」
「昨夜のうちに」
「寝てないんですか」
「少しは寝た」
たぶん少しも寝ていない顔だった。
ルチノは持っていた紙を差し出す。
「議事録の目録だ。まだ肝心の本文までは取れていないが、二十年前の開発会議が途中で欠けてる。抜かれたか、別保管だ」
「欠けてる……」
「おそらく、ある」
断言ではなく、それでも強い声だった。
クリストルンは紙を受け取り、細かな文字を目で追う。日付、会議名、保管棚番号。確かに、連番の途中に不自然な空白がある。
「ルチノさん、ここまでして大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃない」
「ですよね」
「でもやる」
風が、二人の間を通り抜ける。
ルチノはフェンスに片手を置いたまま、遠くを見ていた。
「家族を疑うのは、気分のいいことじゃない」
「……うん」
「父は会社を守ろうとしてきた。俺はそれを見て育った。だから今でも、全部が悪意だったとは思いたくない」
そこで言葉が切れる。
クリストルンは黙って待った。
「けど」
ルチノは続ける。
「真実を知らないまま守る伝統なんて、守ってないのと同じだ」
その一言が、まっすぐ胸に入ってくる。
クリストルンは思わず、ルチノの横顔を見つめた。
この人は今、自分の足元まで疑いながら立っているのだ。
それでも目をそらさない。
「ありがとうございます」
小さく言うと、ルチノは少しだけ眉を寄せる。
「礼を言われる段階じゃない」
「でも、うれしいので」
「おまえはすぐ顔に出るな」
「ルチノさんは出さなすぎます」
返した瞬間、ルチノの口元がわずかに動く。
笑いかけてやめたような、不器用な表情だった。
クリストルンの頬が熱くなる。
春の風のせいではないと、自分で分かってしまう。
「……俺が調べる」
ルチノは視線を逸らしたまま言った。
「だから、おまえは自分の企画を諦めるな」
「はい」
「あと、危ないことは一人でするな」
「それ、心配してます?」
「確認だ」
「心配ですね」
「うるさい」
その言い方が少しだけ柔らかくて、クリストルンは笑った。
屋上の扉が閉まるころには、胸の中の重さが少しだけ違う形になっていた。
まだ答えは遠い。
けれど、自分一人で歩いているわけではないと、初めてはっきり思えた。