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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
午後の企画部は、珍しく空気が軽かった。
ペトロニオが地方の展示会帰りらしく、大量のお土産を机に並べている。人形焼、煎餅、謎のゆるキャラ型クッキー。箱を開けるたびに香りが広がり、部署の何人かが仕事の手を止めて集まっていた。
「クリストルンちゃん、これ食べる?」
「いただきます」
「ルチノ主任は?」
「後で」
「そういうところだよ、ほんと」
ペトロニオはにやりと笑い、クリストルンとルチノを交互に見る。
「何ですか、その顔」
「いやあ。最近、二人の間に流れる空気がね」
「流れてません」
「流れてるよ。何ていうんだろう。切ない恋愛の物語の前半みたいな」
「違います!」
思ったより大きな声が出てしまい、周囲が一斉に振り向いた。
クリストルンは真っ赤になる。
ルチノは書類から顔を上げ、無表情のまま言った。
「余計なことを言うな」
「その否定の弱さが面白いんだよなあ」
「弱くない」
「じゃあ即答で“違う”って言ってよ」
「……仕事中だ」
ペトロニオが肩を震わせて笑う。
クリストルンは机に突っ伏したくなった。
「やっぱり弱い」
「うるさいです」
「でも、こういうの嫌いじゃないよ。重い空気の部署には、ちょっとした春が必要だからね」
「春を勝手に置いていかないでください」
なんとか言い返したところで、企画部の入口が静まり返った。
エドワインが入ってきたのだ。
高いヒールの音が、床にまっすぐ響く。さっきまでの笑いが、一気に引いていく。
「クリストルンさん」
「はい」
呼ばれた声の冷たさに、背筋が伸びる。
エドワインは一枚の書類を差し出した。
「人員再配置の通知です。あなたは本日付で、“親子向け音声玩具企画”の担当から外れます」
「……え」
耳の奥が白くなる。
「理由は」
ルチノが先に問うと、エドワインは視線も向けずに答えた。
「企画の取りまとめに必要な客観性と、守秘能力の再確認が必要と判断しました」
「それは事実上の」
「正式な配置転換です」
言い切られる。
逃げ道のない声音だった。
クリストルンは書類を受け取る。紙は軽いのに、手の中ではひどく重かった。
「私は、まだ何も」
「まだ何も証明していない、とも言えます」
エドワインの言葉は鋭かったが、怒鳴り声ではない。だからこそ余計に痛い。
ペトロニオの笑顔は消え、エマヌエラが遠くから険しい目で様子を見ている。部署全体が息をひそめた。
クリストルンは唇を結ぶ。
泣きたくはなかった。こんな場所で、こんな紙一枚に負けた顔はしたくない。
「分かりました」
やっとのことでそう言うと、エドワインは短くうなずく。
「机の整理は本日中に」
彼女が去ったあとも、ヒールの音だけがしばらく耳に残った。
沈黙の中で、ペトロニオが小さくつぶやく。
「……前半どころじゃなかったな」
「今それ言います?」
クリストルンが言うと、彼は真面目な顔で頭を下げた。
「ごめん。でも、ここからだよ」
ルチノは通知書を見つめたまま、低く言う。
「終わってない」
「はい」
「終わらせるな」
クリストルンはうなずく。
胸の奥は苦しいのに、不思議と視線は落ちなかった。
切ない恋愛の物語じゃない。
これは、取り戻す話だ。
そう思った瞬間、悔しさの中に小さな火が灯った。