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その夜、シェルターの中央に、誰かが大きな円を描いた。
チョークを持っていたのはジャスパートだった。舞台でも客席でもなく、橋の下の地面そのものへ、彼はぐるりと白い輪を引く。その周りで皆が黙って見ている。
「何してるの」
モルリが聞く。
「勝てない時の図」
ジャスパートが答える。
「全然分からない」
「説明する」
彼はチョークを橋の支柱へ向けた。次にシェルターの奥の壁、橋へ上がる階段、時計塔の見える開口部、客席にする予定の場所へと、短い線をいくつも伸ばしていく。
「装置で勝てない。映像でも勝てない。電源でも不利」
一本ずつ線が増える。
「なら、こっちが持ってるものだけで組む。声。反響。沈黙。橋脚。水音。鐘」
最後の一語で、皆の視線が自然に時計塔の方へ向いた。
サベリオは腕を組み、地面の図を見下ろす。
「時計を舞台に使うってこと?」
「時計そのものじゃない」
ジャスパートは首を振る。
「時計が鳴る前の、町が息を止める感じまで含めて使う」
ヌバーが口を開ける。
「抽象的すぎて、逆に怖い」
パルテナは意外にも真面目な顔で地面にしゃがんだ。
「でも分かる。派手なものって、止まると何も残らないのよね」
指先で円の縁をなぞる。
「こっちは止まっても、人がいれば続けられる形にするってことでしょ」
「そう」
ジャスパートは短く言う。
「だから、勝てないなら、止まらない方をやる」
その言葉に、ミゲロがふっと息を吐いた。
「橋の下は、もともとそういう場所だ」
誰かが困って流れ着いて、雨が止むまで居座って、気づけば知らない人同士で喋っている。立派な設備がなくても、そこに人がいれば続いてきた場所。その記憶を舞台の形にするなら、確かにここしかない。
サディオがタブレットを抱えて言う。
「映像、最小限にするなら、配る紙の方を強くしようか。客席の手元に短い一文を置くとか」
デシアが目を上げる。
「開演前に、町の音の名前を配る?」
「いい」
ジャスパートがすぐ反応する。
「『しずく』『橋脚』『遠い笑い』『深い時計のうなり』。先に耳を開いてもらえる」
ホレはその案を進行表へ書き足していく。グルナラは予算が増えないよう紙の枚数を数え、ヴィタノフは灯りが少なくても見える配置を頭の中で組み始めていた。
サベリオは一人だけ、少し離れた場所で時計塔を見上げた。
深い時計の文字盤は今夜も青い。あの中に、まだ完全には直っていない鐘がある。音を武器にするなら、あれを鳴らさないわけにはいかない。
コスタチンの言葉が思い出される。
鳴らせる。まだ鳴らせる。
その時、デシアが隣に来た。
「考えてること、一緒だと思う」
サベリオは苦笑する。
「顔に出てた?」
「かなり」
彼女も時計塔を見る。
「最後、あの音が必要」
「うん」
「怖い?」
問われて、サベリオは少しだけ考えた。
「怖いよ」
隠さず答える。
「鳴らなかったら終わる気がして」
「鳴らなくても終わらない」
デシアは言う。
「でも、鳴らしたいんでしょ」
その通りだった。
サベリオは頷く。
「俺、今から師匠のところ行く」
「今?」
デシアが目を瞬く。
「真夜中に目が覚めたら、あの時計うなるだろ」
サベリオは橋の外へ視線を向けた。
「たぶん、あの時間が一番、癖が出る」
ジャスパートがその会話を聞きつける。
「行くなら録る」
「修理だよ」
サベリオが言う。
「修理前の音も必要」
「仕事熱心すぎる」
モルリが立ち上がる。
「私も行く!」
ホレが即座に止める。
「騒がしいのは連れていけない」
「なんで!」
「真夜中だから」
結局、行くのはサベリオとコスタチン、必要なら途中からデシアが待機する形に決まった。
決まった瞬間、橋の下に変な静けさが落ちる。本番が近いこと、戻れないところまで来たこと、そのどちらも皆が同時に飲み込んだからだ。
サベリオは道具袋を手に取る。
少し重い。けれど、いつもの裏方の重さとは違っていた。
誰かの後ろを支えるためではなく、自分たちの最後の音を掴みに行くための重さだ。