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その夜、水鐘町が眠りに落ちた頃、時計塔の足元だけはまだ起きていた。
深い時計の下で、コスタチンは古い工具箱を開けている。年季の入った金具、磨り減った布、細い油差し。必要な物を選ぶ手が迷わない。サベリオは隣で懐中電灯を押さえながら、喉の奥に小さな緊張を溜めていた。
「顔、固いぞ」
コスタチンが言う。
「分かる?」
「弟子の顔くらい分かる」
橋の上ではもう車も少ない。川の流れが夜更けの音に変わり、町の遠くから犬の鳴き声が一度だけした。やがて、深い時計の内部から、低いうなりみたいな振動が響く。
真夜中に目が覚めたら聞こえる音。
ジャスパートが言っていた通り、町の底で誰かが息を押しとどめるような響きだった。
サベリオは見上げる。
「来た」
「癖が出る時間だ」
コスタチンは短く言って、工具箱を閉じた。
「上がるぞ」
細い階段を二人で登る。鉄の踏み板はひんやりして、足音が乾いて反響した。壁の向こうで、機構のどこかが小さく震えている。サベリオは一段一段進みながら、昔ここへ初めて連れてこられた夜を思い出した。あの時も、怖かった。落ちるかもしれない高さより、触ったせいで壊すかもしれない重さの方が怖かった。
上の機械室へ着くと、湿った金属の匂いが鼻に入る。
コスタチンが懐中電灯を向ける。
「ほら見ろ」
金具の一つが、かすかにずれていた。ひびの入った吊り部分へ余計な負荷がかかり、鐘そのものではなく、その手前の支えが耐えている状態だと分かる。
サベリオは息を呑んだ。
「よく持ってたな」
「持たせてた」
コスタチンが言う。
「だが、今夜で終わりだ。ごまかしは」
二人はすぐ作業に入った。
ボルトを緩める音。油の匂い。布で古い粉を拭い取る手つき。サベリオの指は途中で少し震えたが、一度工具を握ると、その震えは仕事の中へ溶けていった。
時計塔の下では、デシアが一人で待っていた。
彼女は外壁に背を預け、台本を開いている。夜露が紙の端を少し湿らせる。誰もいない道へ向かって、彼女は小さく声を出した。『春の音』の独白。まだ本番の声ではない。けれど逃げないための声だ。
「ここで待ってる人は」
彼女は読んで、
「帰れないんじゃなくて、帰る前に少しだけ、自分の音を確かめてるんだと思う」
その一行は、さっき書き直したばかりだった。
デシアは読むたび、自分の声が少しずつ自分のものへ戻ってくるのを感じる。昔みたいに完璧ではない。だからこそ、今の話へ近い。
上では、サベリオがひびの走る金具を支えながら言った。
「師匠、これ、本番までもつかな」
「もたせる」
コスタチンは迷わない。
「弟子が今さら弱気出すな」
「弱気じゃない。確認」
「似たようなもんだ」
言い返す余裕が少しだけ戻る。
そのことが、サベリオ自身を落ち着かせた。
作業は長引いた。仮に支えるだけならもっと早い。だが今夜は、鳴る可能性を少しでも上げるための細かな調整までやる。鐘の重み、振り子の戻り、支点の角度。古い機械は、人間みたいにすぐ機嫌を変える。
途中、外で風が強くなった。
窓の隙間が鳴る。
デシアは顔を上げ、時計塔を見た。上の方で、かすかな金属音が重なる。呼吸を止めたくなるが、止めると不吉な気がして、代わりに彼女はもう一度、台本の続きを読んだ。
「声にしないと、消えたみたいになるから」
その一文が夜気の中へ落ちる。
上では、サベリオが工具を置いた。
「……師匠」
「何だ」
「これ、鳴ったら」
彼は少し言いよどむ。
「俺、泣くかもしれない」
コスタチンは鼻で笑った。
「鳴ってから言え」
けれど、その声は少しだけ優しかった。