テラーノベル
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数週間ぶりに出社した私は、同僚たちに迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思いながら、オフィスに足を踏み入れた。思っていた以上に皆が温かく迎え入れてくれて、ほっとする。
長く休んでしまったことのお詫びとして持参した菓子を手に、部長の元へ挨拶に向かった。
部長は私の体調を気遣った後、声のトーンをわずかに落として言った。
「例の派遣の人だけど、やっぱりあの人にはやめてもらったよ。営業部には今、別の人が来ているから、よろしく」
「はい。分かりました」
一礼して席に戻ると、椅子に座ったか座らないかのタイミングで、隣の席の同僚が声を潜めて話しかけてきた。彼女は私と将司がつき合っていたことを知っていた一人だ。
「大原さん、一応教えておくね。営業部の多田さん、会社辞めたわよ」
「えっ……」
「あの派遣の人、営業部の上司たちに、全部話しちゃったみたい。まさかあの多田さんが、彼女と浮気してたなんてね……。今回の大原さんのけがの原因、その一端が自分の浮気にあると知って、いたたまれなかったでしょうね。多田さん本人が、直接何かしたわけじゃなかったとしても」
その渦中にあった一人として複雑な思いを抱きながら、私は同僚の話に耳を傾けていた。話し終えた彼女が仕事に戻った後、私はそっとため息をついた。それは、この件はこれで本当に終わったのだと思って吐き出した安堵のため息だった。余程の偶然でもない限り、今後彼らと会うことはないだろう。
それからの私は恋も仕事も順調で、落ち着いた毎日を過ごしていたのだが、その平和な日常を揺さぶるような出来事が起きる。
その日は残業のため、いつもより少しだけ帰宅が遅くなった。
マンションに着いた私はまず、いつものようにエントランスを入った所にある郵便受けの中を確かめた。今日も大量のチラシが入っている。やれやれと苦々しい気分でそれらを取り出して手に持ち、部屋に向かった。
まれにチラシの間に、公共料金の検針票や郵便物が紛れていることがある。念のためにと一枚一枚に目を通していたところ、真っ白な封筒が現われた。それは糊付けされておらず、表にも裏にも何も書かれていない。
私は中に入っていた紙を取り出した。近所の店のチラシか何かでもあろうと思いつつ、きっちりと折り畳まれていたそれを広げる。
「何、これ……」
真っ白な紙の真ん中に、太めの黒い文字が並んでいた。
『久保田さんにあなたは似合わない』
文字を目で追い、私は生唾をごくりと飲み込んだ。胸に嫌な動悸が広がる。黙っていては、得体の知れない怖さに支配されそうで、あえて大きめの声でつぶやく。
「久保田さんって、やっぱり諒ちゃんのことかな」
そうだとすれば、と私は思考を巡らせた。
これを書いたのは諒を知っている人に違いない。恐らくは、諒に思いを寄せている人物だろう。その文面からは、私と諒が交際していることを知っていて、そのことを快く思っていない気持ちが読み取れる。ふと、これを書いたのは例の女性ではないかと思った。決めつけてはいけないけれど、諒の話とどうしても繋げて考えてしまう。
仮に彼女ではないとしても、この手紙の送り主は、確実に私のことを知っているように思えた。宛名のない封筒が、私のマンションの郵便受けに直接入っていたことがその証拠だ。その人物が私の部屋を把握していると思うと、背筋が冷たくなる。
電話が鳴ったのはその時だ。
非通知の番号だった。まさかと思い、電話に出ることを躊躇した。しかし、着信音は延々と続いている。私は意を決して、恐々と電話に出た。
「……もしもし?」
しかし電話はすぐに切れた。
不審な手紙が届いた後の非通知の電話は、さらに私を怯えさせた。諒が来ると分かっていれば心強いが、今夜彼は当直だ。私はいつも以上に念入りに戸締りを確かめ、心細い気持ちを紛らわせるかのように、ばたばたと夕食の準備に取り掛かった。
怪しいその手紙は、翌日も郵便受けに入っていた。前日と同様、真っ白な封筒には宛名も差出人も何も書かれていない。部屋に入ってから取り出した紙には、こう書かれてあった。
『久保田さんと別れてください』
三日目以降からは、手紙は裸のままだった。チラシとチラシの間に、ある時は重なったチラシの上に乗せられて、連日郵便受けの中に入っていた。
『久保田さんを本当に好きなのは私です』
『あなたよりも私の方がずっと久保田さんのことを愛している』
『あなたさえいなければ久保田さんは私の方を見てくれるはず』
怪文書が投函され続けて六日目の朝になってようやく、私は諒に話そうという気持ちになった。相談したいことがあると書いて、メッセージを送信する。
諒から電話がかかってきたのはその夜だ。
『連絡、遅くなってごめん。今メッセージを見たんだ。何かあったのか』
彼の声を聞いて安心した。そのせいで震えそうになる声を励まして、私は答える。
「忙しいのに、ごめんなさい。ちょっと見てもらいたい物があって。……次のお休みの時でいいから、会って話を聞いてもらえないかな?」
『瑞月が大丈夫なら、これから行くよ。お前に会いたいと思ってたんだ。行ってもいいか?』
「いいの?来てくれるの?」
『当たり前だろ。瑞月が俺に相談したいなんて言うの、割と珍しいから、心配になる。いったん部屋に寄ってから向かうよ。それでなんだけど、なんでもいいから何か食べさせてもらえたら、ものすごくありがたいんだけど。なんならお茶漬けでもいいよ』
「分かった。ありがとう。気を付けてきてね。待ってる」
諒の電話を切った後、私は早速夜食の準備を始めた。
それから一時間もたたないうちに、彼はやって来た。
私はいそいそと玄関に向かい、彼を招き入れる。
「お疲れ様。忙しいのに、会いたいなんて言ってごめんね」
「全然。瑞月の顔を見たら、疲れなんて吹っ飛んだ」
「ふふっ。お夜食、できてるよ」
「お、助かる。腹ペコなんだ」
お腹の辺りをさする仕草をしながら、諒は嬉しそうに笑った。リビングに足を踏み入れた彼は、その片隅に、手にしていた二つのリュックを置いた。
「仕事の時って、リュック二つも持って行ってるの?」
「ん?あれ?」
諒はテーブルの前に腰を落ち着けながら、にやりと笑った。
「一つは日常遣いのやつで、もう一つは宿直なんかで泊まる時のための荷物が入ってる。今夜はこのまま泊まって行こうと思ってさ。お前は明日休みだろ?構わないよな?」
「それはいいけど……。でも、諒ちゃんの明日の仕事は?ここから出勤して大丈夫なの?」
「明日はいつもより少し遅めに行っていいんだ」
「そうなんだ。じゃあ、明日の朝ごはん、一緒に食べられるかな?」
「あぁ、一緒に食べよう。だからさ……」
諒は口元に笑みを佩いて、私に艶やかな視線を流してよこす。
「体の方、もう大丈夫だろ?」
「おかげさまで、それは……」
諒が何を求めているのかが分かった途端に頬は熱を持ち、私はそわそわと落ち着かない気分になった。
コメント
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看護師さんの中にいるのかな?