翌日の月曜日、奈緒はいつものように出社した。
奈緒の勤め先は大手通信会社の株式会社KDSDだ。大学卒業後からずっとこの会社で働いている。
現在奈緒は31歳。
入社時は営業推進本部に配属されていたが、先月経理部に異動したばかりだ。
奈緒が経理部に異動になったのには訳がある。
それは彼女が簿記二級の資格を持っていたという以外に、もう一つ理由があった。
奈緒は、営業推進本部のエースである江崎徹(えざきとおる)と交際していた。
二人は近々正式に婚約し結婚する予定でいた。
結婚した後も仕事を続けるつもりでいた奈緒は、少し前に異動の希望を出していた。
その時ちょうど経理部に欠員が出た。
経理は地味な部署だが、コツコツ働くタイプの自分には向いていると奈緒は思っていた。
それに経理部の仕事は、繁忙期以外には定時で帰れる。
主婦業と両立するにはもってこいの部署だと思った奈緒は、上司の加賀(かが)から推薦してもらい経理部へ移った。
しかしよかれと思ってした異動も、全て無駄に終わってしまった。
なぜなら、先月、婚約者の徹が交通事故で亡くなってしまったからだ。
奈緒が思い描いていた未来は、徹の死と共に全て消えてしまった。
そして奈緒は今日でこの会社を退職する。
実は徹が交通事故で亡くなった際、ある事実が発覚し奈緒は会社に居辛くなってしまった。
散々悩んだ挙句、奈緒は思い切って環境を変える事に決めたのだった。
この会社での勤務最終日、奈緒は営業推進部時代に上司だった部長の加賀に呼び出されていた。
奈緒は加賀が待つ会議室へと向かう。
廊下を歩いている奈緒を見かけた女子社員達は、一斉にヒソヒソと噂話を始めた。
「彼女の勤務、確か今日までだったわよね?」
「そうよ。さっき加賀部長に呼ばれてたわ」
「きっと江崎さんの事よねー」
「本当に可哀想……私だったらきっと耐えられないわ!」
「それにしても、あの江崎さんがねぇ……そんな人だとは思ってなかったからショックだわぁ」
「うんうん、まさか二股をかけてたなんてねぇ」
「三輪(みわ)さんも馬鹿よねぇ……人の恋人に手をだすからバチが当たったのよぉ~」
「うんうん、天罰ってあるのよねぇ、ほんとその通り!」
「こわーっ、ほんと気を付けないと!!!」
その会話は奈緒の耳にもかすかに聞こえた。
しかし奈緒は両手にギュッと力を入れ、なんとか平静を装いながら会議室を目指した。
徹が事故を起こした際に発覚した事実とは、女子社員達が言っていた内容とほぼ同じだ。
徹は同じ部署の後輩・三輪みどりと交際をしていた。つまり二股をかけていたのだ。
それを知った時の奈緒は、まさかという思いでいっぱいだった。
徹にその事実を確認したくても既に徹は死んでいるので、今となっては本人に確認する事さえ出来ない。
そして遺された奈緒だけが、今、茨の道を歩かされているのだ。
もうこんな晒し者のような環境からは一刻も早く逃げ出したい。
奈緒は溢れてきそうな涙をぐっとこらえると、加賀の待つ会議室のドアをノックした。
「どうぞ」
中から加賀の声が聞こえてくる。
「失礼します」
元上司の加賀は窓辺に立って外を眺めていたが、奈緒が会議室に入ると振り返って言った。
「最終日の忙しいところを呼び出して悪かったね。まあ座って下さい」
「失礼します」
奈緒と加賀は向かい合って座る。
「何かご用でしょうか?」
「用というほどものじゃないんだが、君が辞める前に聞いておこうと思ってね。次の就職先は決まったのか?」
「まだ決まっていません。しばらくのんびりしてから探そうかなと思っています」
「そうか! まだ決まってないのか! だったら、是非ここを受けてみないか?」
加賀がそう言って一枚の名刺をデスクの上に置いたので、奈緒は少し驚いてから名刺を覗き込む。
名刺には、
【CyberSpace.inc(サイバースペース インク)経理部長・村田美奈子(むらたみなこ)】
と書いてあった。
(CyberSpace.inc? 聞いた事がある……)
「深山省吾って人物を知ってるか? その会社は、彼がやっているIT関連の会社なんだ」
(深山省吾? ああ、確か今IT業界で最も注目されている会社の経営者で、うちとも取引があったような?)
奈緒はすぐに答えた。
「はい、存じ上げております。確かうちとも取引がありましたよね?」
「うん、そうなんだ。彼はなかなかガッツがありとても信頼できる男なんだよ」
「でもその会社をなぜ私に?」
「昨日たまたま彼の会社の人間と話す機会があってね、今ちょうど経理に欠員が出て誰かいい人がいないかって聞かれたんだよ。その時ちょうど君の顔が思い浮かんでどうかなと思ってね。どうだ? 一度面接を受けてみないか? 君が受ける気があるなら話を通してあげるから」
奈緒は驚く。まさか退職前の最終日に加賀から転職先を紹介されるとは思ってもいなかったからだ。
そして驚きと同時に感謝の気持ちが溢れてくる。
奈緒は正直、30歳を過ぎてからの就活に少し不安を覚えていた。20代ならまだしも、31での転職はかなり苦戦する事を覚悟をしていた。
仮に転職先が決まったとしても、大手の今の会社より給与は減ってしまうだろう。
これから先一人で生きて行く事を覚悟している奈緒にとって、それは直視したくない現実だった。
そんな奈緒に、加賀は今をときめく誰もが憧れるような会社を紹介してくれたのだ。
(もしかしたらこれが私の転機になるかもしれない)
そう思った奈緒はすぐに返事をした。
「ありがとうございます。是非ご紹介いただければと思います」
奈緒の返事を聞いた加賀は、ホッとした様子で続ける。
「じゃあすぐに経理部長の村田さんへ連絡しておくよ。面接の日程等については、君の携帯に直接連絡を入れてもらうようにするからそのつもりで」
「はい、よろしくお願いします」
奈緒は加賀に深く頭を下げる。
その時加賀が、切ない表情を浮かべて言った。
「いや、君には本当にすまなかったと思ってる。江崎の直属の上司として、君には辛い思いをさせただけじゃなくこんな事になってしまって……本当にすまない、許してくれ」
今度は加賀が奈緒に向かって深々と頭を下げた。
「部長、頭を上げて下さい。部長のせいなんかじゃないですから、謝らないで下さい」
すると加賀はゆっくりと頭を上げながら続ける。
「まさか江崎と三輪がそんな関係だったとはなぁ。もし私が気づいていたらこんな事にはならなかったのにって何度も悔やむよ。いやぁ、上司失格で申し訳ない」
加賀はそう言って淋しそうに笑った。徹の事故以来、加賀も少しやつれたように見える。
その時奈緒は思った。
(徹の件で傷ついているのは、私だけじゃないのね……)
部長の加賀は、奈緒が入社した時からいつも父親のように見守ってくれていた。
奈緒は母子家庭だったので、父親がいない。
そんな奈緒の家庭環境を知っている加賀は、特に奈緒を実の娘のように可愛がってくれていた。
そして加賀は徹にも何かと目をかけていた。徹を営業推進本部のエースに育て上げたのも加賀だった。
だから加賀のショックも相当なものだろう。
徹と奈緒は、結婚式の仲人を加賀に頼んでいたので、加賀も結婚式を楽しみにしてくれていた。
しかし急にこんな事になってしまい、加賀も相当参っているのではないか?
「加賀部長、どうかご自分を責めないで下さい。部長はこれからも営業推進部のみんなを引っ張って行く立場なんですからどうか……。私はもう大丈夫です。心配しないで下さい。紹介して下さった会社の面接も頑張りますのでどうか安心して下さい。そして、今日まで本当にお世話になりました」
奈緒は椅子から立ち上がると、深々と加賀に向かって一礼をした。そして出口へ向かう。
「麻生君! よそへ行っても何か困った事があればいつでも相談するんだぞ!」
加賀の言葉を聞き、奈緒の瞳に涙が溢れてくる。
しかし涙をこぼさないように上を向きながら一度深呼吸をすると、ドアの前でもう一度深く一礼をしてから会議室を後にした。
そしてこの日奈緒は、新卒以来ずっと勤め続けた会社を退職した。
コメント
138件
婚約者に二股をかけられ、しかも彼は 浮気相手と共に事故死....😱 奈緒ちゃん本人には 何の罪もないのに、会社にも居たたまれなくなり 辛いね....😢 上司が素晴らしい人で、それだけは 本当に良かった🥺 省吾さんの会社の面接を受けることになりそうな奈緒ちゃん....🏢 これからはきっと良いことがあると思うよ....🍀✨ 頑張ってね‼️💪
加賀さん親身だし職を紹介してくれるなんて。奈緒ちゃんが素晴らしい人間だからこそだね🫶💕省吾さんの会社とはദ്ദി •̀ᴗ-) ‹"ーᵎᵎ凄い縁を感じる🤭
噂するなら、せめて本人のおらん所でせぇよ。いや、せんでええ。 徹ちゃん 交通事故で 浮気バレ 徹ちゃん 浮気相手は 三輪みどり 徹ちゃん 浮気しながら シんじゃった 上司言う 深山省吾は ガッツだぜ 簿記を知る 奈緒の転職 ガッツだぜ