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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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明け方近く、クリストルンは一人で嫁入り道具の箱を開けていた。
木の箱は何度も磨かれて、角がやわらかくなっている。
蓋を上げると、古い布の匂いがふわりと立ちのぼった。甘すぎず、どこか陽だまりみたいな匂いだった。
「寝ないと明日倒れるぞ」
背後からモンジェの声がする。
「ちょっとだけ」
「その“ちょっとだけ”で夜を明かすのは、完全に俺の血だな」
「じゃあ責任取って見守って」
モンジェはぶつぶつ言いながらも、娘の向かいに腰を下ろした。
箱の底には、母が残した小さな布が畳まれていた。
婚礼家具を覆っていた内張りの切れ端だと、昔一度だけ聞いたことがある。見せてもらった記憶はほとんどない。ただ、指に触れた感触だけは覚えていた。
クリストルンはそれを両手で持ち上げた。
薄いのに、驚くほど丈夫だ。色は年月で少し落ち着いているが、椿を思わせるやわらかな赤みが残っている。
「これ、使いたい」
「どこに」
「くまの内側。外からは見えないタグのところ」
クリストルンは布を胸の前で広げた。
「見えない場所にお母さんの記憶を縫い込みたい」
モンジェはすぐには答えなかった。
箱の中を見つめたまま、指先で木の縁をなぞっている。
「見えない場所でいいのか」
「うん」
「派手に外に出した方が、おまえらしいだろ」
「それも考えたけど……」
クリストルンは少し笑う。
「家族って、たぶんそういうものじゃないから」
大きく見せるためにあるんじゃない。
抱きしめたとき、そっと内側で支えるためにある。
そう言うと、モンジェは目を伏せた。
「おまえ、ほんとに大きくなったな」
「今さら?」
「今さらだ」
「遅い」
「遅いのは認める」
珍しく素直な返事に、クリストルンは少しだけ目を丸くした。
二人で布を必要な大きさに裁つ。
モンジェの手は慎重で、クリストルンの手は迷いがない。親子なのに、癖はあまり似ていない。それでも並べた指先には、どこか同じ温度があった。
タグの位置にその布をあてると、くまは急に“誰かのもの”になったように見えた。
商品ではない。
家族の記憶が通る、たった一つの通り道みたいだった。
「お母さん、怒るかな」
クリストルンがぽつりと言う。
「なんで」
「大事な布を切っちゃって」
「怒らない」
モンジェは即答した。
「あいつは、使われずにしまわれる方が嫌いだった」
そう言ってから、モンジェは少し笑った。
「むしろ“やっと出番ね”って顔する」
「見たことあるみたいに言う」
「見たことある」
その笑い方に、クリストルンもつられて笑う。
タグを縫い付けたくまを持ち上げたとき、内側に母の時間が入った気がした。
見えないけれど、確かにそこにある。
自分をここまで運んできた人たちが、また一つ、このくまの中に集まった。
朝焼けが障子を薄く染める。
展示会の朝は、もうすぐそこだった。