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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
展示会当日の朝、会場へ運び込む荷物の確認で、全員がばたばたしていた。
「台車、そっちじゃなくてこっち!」
「ヒューバートさん、その布は展示用です、私物じゃないです!」
「え、私物にしたいくらい素敵って意味だけど?」
「今は褒め言葉に聞こえません!」
ペトロニオが笑いながらガムテープを投げ、レリヤがそれを片手で受け取る。
ディトは箱の位置を無言で直し、エマヌエラは全員の動線をまとめ直していた。
その喧騒の中で、ルチノだけが妙に静かだった。
「どうしたの」
荷札を貼りながら、クリストルンが聞く。
「別に」
「別に、の顔じゃない」
「顔に出てるか」
「すごく」
ルチノは観念したように息を吐いた。
「展示会が終わったら、話したいことがある」
「急に重い」
「重くしたいわけじゃない」
「じゃあ軽く言って」
「軽く言える内容なら、こんな顔してない」
その返しがあまりにも真面目で、クリストルンは思わず笑ってしまった。
けれど笑ったあと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「それ、怖いやつ?」
「たぶん怖くはない」
「たぶん?」
「俺にとっては、結構勇気がいる」
「……そっか」
箱を抱えたまま、二人とも少し黙る。
周りは騒がしいのに、その一角だけ音が薄くなるようだった。
ルチノは視線を外したまま言う。
「でも、今は完成が先だ」
「うん」
「今日ちゃんと形にして、そのあと話す」
「分かった」
それだけの会話なのに、妙に手元が落ち着かなくなる。
荷札の角が少し曲がってしまい、クリストルンは貼り直した。
「なあ」
今度はルチノが呼ぶ。
「なに」
「逃げるなよ」
「どっちが」
「俺が話す前に、おまえが仕事の話で全部流す可能性がある」
「……あるかも」
「あるのか」
「あるね」
ルチノが珍しく眉を寄せたので、クリストルンは小さく吹き出した。
「でも、逃げない」
「本当か」
「本当。たぶん」
「おまえもたぶんを使うな」
そのやり取りだけで、少し息がしやすくなる。
会場行きの車に荷物を積み込みながら、クリストルンはそっと胸に手を当てた。
今日が終わったら。
その先のことを考える余裕なんて、今まではなかった。
父のこと、玩具のこと、会社のこと。走る理由はいくらでもあったのに、誰かと並んでその先を考えることだけは、ずっと後回しだった。
ルチノは最後の箱を積み終えると、振り向いて短く言った。
「行こう」
「うん」
返事はそれだけ。
けれどその一言の中に、今日を越えた先の時間が少しだけ含まれている気がした。
まだ告白ではない。
名前もつかない、手前の場所。
それでも、未来の気配はもう、はっきりそこにあった。
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