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ポスターの前で立ち尽くしたのは、ほんの数秒だったはずなのに、サベリオには妙に長く感じられた。
隣にいたデシアが、ふっと息を吐く。
小さな、けれど確かに胸の奥から出た音だった。
サベリオは思わず横を見る。
雨上がりの曇り空の下で、デシアは表情をほとんど動かしていなかった。ただ、さっきの溜息だけが、その顔より先に本音をこぼした気がした。
「知り合いか」
口に出してから、少し遅いと思った。あの古い写真にも写っていた。知らないはずがない。
デシアはポスターから目を離さないまま答える。
「昔、一緒にやってた」
モルリが間に割り込んだ。
「やっぱり! 絶対そうだと思った。だってさっきの顔、ただの有名人を見る顔じゃなかったもん」
「モルリ」
「はい、黙ります」
言いつつ、ぜんぜん黙る気のない声だった。
サベリオはポスターのアルヴェを見直した。華やかな舞台、数字を持ってくる人、駅前に大きく飾られる側。橋の下で湿気を吸っているこちらとは、立っている場所が最初から違う。
「向こうへ行くなら、今のうちだぞ」
自分でも驚くほど冷たい言い方になった。
デシアがこちらを見る。怒った顔はしなかった。むしろ、少しだけ疲れたみたいな目だった。
「行かない」
「でも昔は一緒だった」
「昔はね」
その短いやりとりだけで、サベリオは余計に苛立った。知っていることより、知らないことの方が多いのが嫌だった。
モルリが空気を変えようと、わざと明るい声を出す。
「よし、過去は過去! 今は今! うちは橋の下、向こうは駅前! 分かりやすくていい!」
「そんな簡単な話じゃない」
デシアが珍しく強く言った。
モルリが口をつぐむ。
サベリオは視線を落とした。足元には、通り雨の名残が水たまりを作っている。そこにポスターの色が少しだけ映り込んで、にじんでいた。
シェルターへ戻る途中、三人ともほとんど喋らなかった。
橋の真ん中まで来た時、デシアが立ち止まる。欄干の向こうでは、増水した川が濁った色で流れていた。
「『春の音』、書きかけのままなの」
彼女は川を見たまま言う。
「続きを書けば、何か戻るかもしれないって思って、ずっと持ってた。でも」
言葉が途切れた。
サベリオは続きを待ったが、代わりに出たのは別の一言だった。
「私はもう読まない」
風が吹いた。橋の上を、湿った春の匂いが通り抜けていく。
モルリが慌てて振り向く。
「え、そこ大事なとこじゃん。書くのに読まないの?」
「読めないの」
「違いある?」
「ある」
デシアの声は静かだった。それなのに、モルリはそれ以上軽く返せなかった。
サベリオは、その拒絶が誰に向いているのか分からず、余計に胸が重くなるのを感じた。
昔の事故の夜から、彼女は人前で声を出さなくなった。
それは町の誰もが知っている。けれど、なぜなのかを本当に知っている人は少ない。
橋を渡り切る前に、モルリが両手を腰に当てて宣言した。
「じゃあ読む人、別で探す!」
デシアが眉を寄せる。
サベリオは嫌な予感しかしなかった。
案の定、モルリはくるりとこちらを向いて、にやっと笑う。
「いるじゃん。裏方のくせに、台詞聞くと顔変わる人」
「やらない」
「まだ何も言ってない」
「分かる」
モルリは楽しそうに肩をすくめた。
デシアは何も言わない。ただその沈黙が、肯定なのか否定なのか分からなくて、サベリオはますます居心地が悪くなる。
橋の下へ戻るころには、曇り空の向こうに薄い夕焼けがにじんでいた。