午後五時、仕事を終えた葉月は、社員達に挨拶をしてから出口へ向かった。
オフィスビルを出て空を見上げると、雲一つない爽やかな青空が広がっている。
契約社員の葉月の勤務は週四日。時間は午前十時~午後五時まで。昼の休憩が一時間なので勤務時間は六時間。
ひと月働けば月20万円ほどになる。
葉月にはこれ以外にも収入があった。それは父が遺してくれたアパートの家賃収入だ。
給料と家賃収入を合わせれば、親子二人でやっていくには充分だった。
それに息子の航太郎には父親からの養育費も入る。
正社員になる事を勧められている葉月だったが、この支社での事故受付は二年後には廃止になる。
その後は遠く離れたコールセンターへ通わなくてはならない。
そう思うと、正社員になる事をためらってしまう。
(やっぱり地元で仕事を探さなくちゃ)
そう思いながら、葉月は電車に乗る前にスーパーへ寄った。
スーパーを出て江ノ電に乗った葉月は、少し電車に揺られた後自宅の最寄り駅で降りた。
駅を出ると坂道を上り始める。
途中、一旦足を止めて海の方を振り返った。
さわやかな五月の夕暮れ時、だいぶ高度を下げた太陽の光が海をキラキラと照らしていた。
その輝く波間に、何人ものサーファーがプカプカと浮いている。
(気持ち良さそうだなー)
そして葉月は再び歩き始めた。
歩きながら亡き父の事を思い出していた。
葉月の父は、バンドのバックミュージシャンをしていた。
ライブではキーボードを担当し、有名バンドの全国ツアーにも頻繁に参加していた。
だからツアーの時期になると、いつも日本中を旅していた。
葉月の父親は演奏だけでなく、編曲やプロデュースも担当していたので色々な方面から声がかかる。
葉月は幼い頃から、父が仕事部屋でキーボードやギターを弾いているのを見て育った。
そんな父はサーフィンが趣味だった。
病で倒れる直前までは、毎週のように海へ行きサーフィンを楽しんでいた。
しかし一昨年の暮れに突然倒れ、去年67歳の若さでこの世を去った。あまりにもあっけない最期だった。
その時、葉月はふと思った。
(そっか……お父さんの職業もフリーランスになるのね)
葉月は今日最後に受け付けた顧客の職業の事を思い出していた。
(確かお父さんはフリーランスは不安定な収入だからって、隣にアパートを建てたのよね?)
ふとそんな事も思い出す。
その時、父が遺してくれた家が見えた。
家はヴィンテージ風に色褪せた白い板張りの外観で、海が見渡せる高台にある。
造りはもうかなり古いが、リビングからの眺めは絶景だ。
葉月はこの家が大好きだった。
葉月が小学生の頃、ある日隣の家が更地になり売りに出た。父はその土地を買って小さなアパートを建てた。
アパートを建てた理由は心配性の母親の為だ。
家賃収入があれば、なんとか親子三人で暮らしていける。
フリーランスという不安定な夫の職業に不安を覚えていた母は、父がアパートを建てると言った時とても喜んでいた。
しかし念願のアパートが完成してから5年後、葉月がまだ高校生の時に母はあっさりと病で他界してしまう。
アパートは二階建てで1LDKの間取りの四世帯。
今は20代の新婚カップルや30代のサーファー夫婦、それにカフェ勤務の男性とアパレル関係の女性が住んでいる。
アパートも自宅と同じ白い板張りの外観で、海辺の町によく馴染んでいる。
自宅と同じでアパートもかなり古かったが、海まで三分という好立地のせいか空室になってもすぐに決まる。
葉月は父が遺してくれたこの家とアパートが大好きだった。
この辺りは元々閑静な住宅街だったが、最近人の入れ替わりが激しくなっている。
土地の価格高騰に加え、世代交代が進んでいるのだろう。
芹沢家のアパートとは反対側の隣にも、最近中規模の高級マンションが建った。
おそらくリゾートマンションとして売り出されたのだろう。
普段はほとんど人の出入りがない。
葉月の家の周りも、こうやって少しずつ景色が変わっていた。
家に着いた葉月は、玄関の鍵を開けて中へ入る。
「ただいまー」
すると奥から声が聞こえた。
「おかえりー」
葉月がリビングへ行くと、息子の航太郎がソファーに寝転がって雑誌を見ている。
「今日は早かったんだ」
「うん、彰(あきら)今日から塾なんだって」
「へぇー、とうとう彰君も塾に通い始めたんだ?」
「うん」
航太郎は特に気にする風もなく雑誌を読んでいる。
「航ちゃんも塾に行きたいなら行ってもいいんだよ」
「ハッ? 行きたくねーし」
「でもさ、数学の成績落ちたじゃん」
「落ちたって言っても「5」から「4」になっただけだし。まだ死活問題じゃねーし」
随分生意気な口を利くようになったものだ。
「もしかしてお金の事心配して塾に行くの遠慮してるんじゃないの? だったらそんな心配いらないからね。おじいちゃんのアパートのお陰で塾代くらい余裕なんだから」
「別に遠慮なんかしてないよ。それに成績落ちた分は夏休みに取り戻すつもりだから安心して!」
またもやおとなびた口調で答える息子を見て葉月は思う。
(いつの間にこんなに成長したんだか)
すると航太郎は急に起き上がり、雑誌をテーブルに放り投げて言った。
「ちょっと写真撮ってくる」
航太郎はリビングボードの上にある一眼レフカメラを手にすると、玄関へ向かった。
「車に気をつけなさいよ。夕方は交通量が多いんだからね」
「はいはーいわかってまーす。行ってきまーす」
そして玄関のドアがパタンと閉まった。
葉月は思わず微笑みながら、散らかったリビングを片付け始めた。
そしてテーブルの上にあった航太郎の雑誌を手にしてパラパラとめくる。
「また鉄道雑誌か……」
ここ最近、航太郎は鉄道写真にはまっていた。
一昨年の夏、親子二人で長野へ旅行に行った際、宿泊したロッジでプロカメラマンによるワークショップが開かれていた。
面白そうだったので二人も参加した。
その時講師を務めたのは、著名な山岳写真家の佐伯岳大(さえきたけひろ)だった。そのワークショップをきっかけに、航太郎は写真に目覚める。
旅行から帰ると、航太郎は貯めていた小遣いで一眼レフカメラを買い、中学入学後は写真部へ入った。
最初は風景写真ばかり撮っていた航太郎だが、ここ最近すっかり鉄道写真に夢中だ。
航太郎は参加したワークショップで佐伯氏の息子・佐伯流星(さえきりゅうせい)と友達になった。流星は航太郎と同じ歳だった。
流星とすっかり意気投合した航太郎は、神奈川に戻ってからも流星とマメに連絡を取り続ける。
それが縁で、昨年の夏休み信濃大町の流星の家に招待され、航太郎は写真部の友達一人を連れて流星の家に遊びに行った。
そして神奈川へ戻ると、今度は流星を自宅に招待した。
それ以来、芹沢家と佐伯家は家族ぐるみの付き合いをしている。
流星の母・優羽(ゆう)と葉月も偶然同じ歳だったので、すっかり意気投合し、今では気軽にメッセージのやり取りをする仲だ。優羽が一度所用で東京へ来た際には、葉月も東京まで行き一緒に食事をした。同じ歳の子供を持つ母親同士、二人はとても気が合う。
航太郎は佐伯に写真の基礎知識を教えてもらってから、さらに写真にのめり込んでいった。
そして今では鉄道雑誌のコンテストに、こっそり応募もしているようだ。
(フフッ、おじいちゃんが音楽系のアーティストだったから、航太郎は写真家にでもなるつもりかしらね? もしかしたらうちは代々フリーランスになる家系なのかな?)
葉月はフフッと微笑むと、キッチンへ戻って夕食の支度を始めた。
コメント
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佐伯さん❣️お元気そうで何より✨ サーファー繋がりであの方々のどなたかが出てくるかなぁ😊楽しみー
あのご家族が今回は参加されるんですねー…アパートに住んでる方々新婚さんにカフェ勤務の方々まさか新婚さんあの人達だったら尚更嬉しい☺️☺️☺️
“長野“との文字にもしかして?って思ったら佐伯家❣ しかも流星君まで🤩 葉月ちゃんのお父さん、カッコイイ😆✨ サーフィンにバックバンドとは🤩 年齢的に海斗さん?及川さん? もうもうどこに繋がるのかワクワク(✷‿✷)します❣