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ニカットが帰ったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
ミゲロだけが黙々と金槌を動かし、仮留めの釘を打っていた。その規則正しい音が、沈んだ空気をどうにかつないでいる。
最初に動いたのは、やはりモルリだった。
「期待するなって何。期待させる言い方しといて、それ?」
「モルリ」
ホレがたしなめる。
「落ち着いて」
「落ち着いたら終わるでしょ!」
そう言うと、モルリは入口へ駆け出した。誰かが止めるより早く、石段を駆け上がっていく。サベリオは額を押さえた。
「行ったな」
ヌバーが感心したようにうなずく。
「行ったね。あの勢い、もはや交渉じゃなくて追跡」
デシアは長机の端に立ったまま、『春の音』を閉じた。
「追いつく」
サベリオが反射的に言う。
「いや、俺が――」
「じゃあ一緒に」
結局、二人で石段を上がることになった。
地上へ出ると、雨は上がっていたが、空はまだ鉛色だった。橋のたもとの歩道で、モルリがニカットの前に立ち塞がっている。書類ばさみを抱えたニカットは、明らかに困っていた。
「だから、条件って何ですか!」
「まだ正式通知前です」
「正式じゃなくていいから聞かせて!」
「よくないです」
「そこをなんとか!」
モルリの押しの強さに、通行人までちらちら振り返っている。サベリオがため息をつきながら近づくと、ニカットは露骨に助かった顔をした。ほんの一瞬だけ。
デシアが先に口を開く。
「聞くだけです。決まっていることがあるなら」
ニカットはしばらく迷っていた。だが、二人の後ろに見えるシェルターの入口へ目をやると、観念したように書類ばさみを開く。
「文化広報課に、公開上演の企画があります」
モルリの目が輝く。
「あるじゃん!」
「最後まで聞いてください」
ニカットは低い声で続けた。
「満月の夜に行う住民参加型の公開上演です。複数組が競い、住民投票で最上位を選ぶ。勝った組には、橋の下の区画利用権が残される可能性があります」
可能性、という言い方に、サベリオは眉をひそめた。
「可能性って何だ」
「正式には審査と協議を経ます」
「要するに、勝っても絶対じゃない」
「負ければ確実に終わりです」
それは慰めにならなかった。
モルリだけが、なぜか前向きだった。
「じゃあ勝てばいいんだ」
ニカットはゆっくり首を横に振る。
「相手はすでに内定しています。町の看板企画として」
彼が視線を向けた先、駅前広場の大きな掲示板に、今朝まではなかった新しいポスターが貼られていた。
鮮やかな色。整いすぎた笑顔。大きく踊る企画名。
オートパイロット。
中央には、町でも顔の知れた若手演出家が立っている。アルヴェ。
サベリオは思わず足を止めた。決め顔のポスターは、本人より少しだけ綺麗に作りすぎてある。
モルリが鼻を鳴らす。
「派手」
ヌバーがいれば、きっともっと嫌味の利いた言い方をしただろう。だが今のモルリには、それが精いっぱいだった。
デシアはポスターを見上げたまま動かない。
サベリオはその横顔を見て、胸の奥がざらつくのを感じた。
ニカットは書類を閉じた。
「言えるのはここまでです。申請するなら、期限は短い」
「短いって、どれくらい」
「一週間」
モルリが目を丸くする。
「短っ」
ニカットは今度こそ去っていった。
残された三人の前で、ポスターの端が風に揺れる。アルヴェの笑顔だけが動かない。
サベリオは、ポスターの中央に立つその顔を見つめたまま、低くつぶやいた。
「最悪だ」