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「申し訳、ありませんでした……」
諒の言葉が効いたのだろうか。
女性は振り絞るような声で詫びの言葉を口にし、がくんと膝から崩れ落ちた。うな垂れたまま、訥々と話し出す。
「……いつでしたか、患者さんに優しいお顔で対応する先生の姿を偶然目にしたことがあって、それから好きになってしまって……。私なんか、全く相手にされないと分かっていながらも、諦められませんでした。ほんの少しでもいいから、先生に私のことを好きになってほしくて、目に入れてほしくて。でも先生にとっての私は、外部から派遣されているただのスタッフの一人でしかなくて……」
彼女は切ないような独白を続ける。
「先生が慌ただしく戻っていらしたあの日。ちょうど私がナースの方に呼ばれて、処置室前までカルテをお持ちした時でした。本当に偶然、師長と先生がお話されているのが聞こえたんです。お二人とも小声だったから、所々は聞こえなかったけれど、先生の大切な方のことをお話されているんだって、すぐに分かりました。だってその時の先生は、それまで見たことがないような、本当に優しいお顔をしていたんですもの。後日、その方が先生の診察を受けにいらしたことに気がついたんです。入ってはいけないことは分かっていましたけど、どうしても気になって、診察室に足を踏み入れてしまいました。その時に見た親密そうなお二人の様子が目に焼き付いて、先生に愛されているその人のことがものすごく羨ましくて、どうしようもなく憎くなってしまった。それであんな嫌がらせや、今日のようなことを……」
彼女は地面に両手をつき、深々と頭を下げた。
「本当に、本当に、申し訳ありませんでした。いったいどのようにお詫びすればいいのか……。病院はもちろんやめます。お二人には、本当にご迷惑をおかけしました……」
彼女は言い終えるやいなやポケットからスマホを取り出して、画面に指を伸ばした。しかしあっという間に、諒からそれを取り上げられてしまった。
「返して下さい!警察に電話するんです。自首しないと」
「今私が言ったこと、聞いていなかったんですか?今後はもう私たちに関わらないでもらえれば、それでいいんです。さっきも言いましたよ?あなたの大切な人たちを悲しませないでほしい、って」
「でも……」
「さぁ、私の言葉の意味を理解したのなら、どうかもう行って下さい。そして何度も言いますが、この先二度と、私たちの前に現れないでください」
諒は彼女にスマホを返した。
それを受け取った彼女は涙をこらえるように唇を噛んで、のろのろと立ち上がった。体を折って深く頭を下げ、ふらふらとした足取りで私たちの前から去って行った。
彼女の姿が完全に視界から消えた後、私は諒の顔を見上げる。
「痛みは大丈夫なの?やっぱり病院に行こう?」
「そんな顔するなって。本当に大丈夫だから。とりあえず、いったんお前の部屋へ戻るぞ」
救急車を呼ぶ、あるいは病院に行くつもりは、諒にはないらしい。
それ以上彼に押して言うことを諦めて、私は頷いた。
部屋に入ってすぐに、私は救急箱を用意した。上着を脱いだ彼の前に座り、血がにじんだシャツの袖を慎重な手つきでまくり上げる。自分でやるという諒を止めて、まずは水をしみこませたコットンで周囲の血を拭う。その後に消毒液をふくませたコットンで傷口にそっと触れる。
「いてっ!」
「ご、ごめんっ!優しくしたつもりだったんだけど」
慌てて手を引っ込めた私に諒は苦笑する。
「少ししみただけ。続けてくれる?」
「う、うん」
時折顔を歪ませる諒を気にしながら、私は手当てを続けた。
「とりあえずはこれでいい?」
「あぁ、上出来だ。ありがとな」
彼は私に礼を言いながら、指先でガーゼで覆った傷の部分に触れた。
「やっぱり、たいしたことなかった。うまく刃先をかわせたのもあっただろうけど、斬られたのが服の上からだったしな。おまけに女性の力だったからね。もっと厚手のコートを着ていたら、こんな傷だってつかなかったかもしれない」
諒の言葉を聞いて、不安な気持ちは落ち着きはしたが、今度はその時の恐怖が甦って来てしまった。私の目の前は涙でかすむ。
「これくらいですんで、本当に良かった……。諒ちゃんが刺されたって分かった時、頭が真っ白になった。絶対何年か分の寿命が縮んだよ」
「それを言ったら俺だってそうだ。俺があと何秒か気づくのが遅かったらと思うと、心底ぞっとするよ。刺されたのがお前でなくて、本当によかった」
諒は肩で安堵のため息をつき、私に向かって腕を広げた。
私は彼の胸に体を預け、彼の規則正しい心音に耳を傾けながら訊ねる。
「ねぇ。どうして警察を呼ばなかったの?」
「ん、なんていうか……。一歩間違ってたら俺もこうなってたかも、って思ってしまってさ」
「どういう意味?」
「いや、もしもさ。瑞月に俺の気持ちを受け入れてもらえなかったら、積年の想いの行き場を失った俺は冷静ではいられなくなって、お前の元カレに危害を与えることになったかもしれないな、って。ふとそんなことを思ったら、少しだけあの人に同情の念が湧いてしまったというか……。彼女にしてみれば、俺に同情なんてされたくないだろうけどね」
「そう……」
諒がそんな愚行を犯すような人間ではないことはよく知っている。しかし今、口にすべき適当な言葉が見当たらず、私は相槌を打つだけに留め、確かめるように、また、自分自身に言い聞かせるようにつぶやく。
「これで本当に、もう心配いらないんだよね」
「彼女の謝罪や後悔は本心からのものだったと思う。だからきっと、この件はもう終わりだ。だからと言って、引っ越すまでの間は自分の部屋に戻るなんてことは、言い出さないでくれよ。この前も言ったけど、お前が隣で寝ていない夜なんて、もう考えられないんだから」
「大丈夫、そんなこと言わないよ。だって私も同じだもの」
諒は嬉しそうに、満足そうに笑う。
「さて、急ぐべきは引っ越しだな。とりあえずはその話は今は置いておいて、そろそろ帰ろうか。俺の、いや、俺と瑞月の部屋へ」
「うん」
私は笑顔で頷き、差し出された彼の温かな手を握り返して立ち上がった。
彼は私を抱き止め、にっと笑う。
「今夜は生姜焼きが食べたいな」
「じゃあ、スーパーで買い物してから帰ろう」
私たちの元に戻ってきた、ありきたりで穏やかなこの日常が愛おしい。もう何者にも邪魔されたくはないと強く思いながら、私は諒の後を追って玄関に向かった。
その翌日、仕事から帰宅した諒の話では、今日から新たに受付業務につくことになったスタッフとして、落ち着いた雰囲気の年配の女性が皆に紹介されたという。