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雨は、日が落ちる前に領全体を覆った。
アキムたちが上流へ着いたとき、最初の感染田はもう半分が水に沈んでいた。
畦の一角が崩れ、白く濁った水が筋になって主水路へ流れ込んでいる。
「土嚢を二列! 下の水門は閉めろ!」
ディーヴオンが雨音に負けない声で叫んだ。
兵たちが泥へ飛び込む。彼自身も腰まで水に入り、流されかけた土嚢を肩で押し戻した。
アキムは銀色の帽子を被る。
濁流の中に、病斑で見たものと同じ濁った銀粒が無数に流れていた。
「入ってる。もう主水路まで来てる!」
「全部閉じたら下流の田が干上がる!」
「分かってる!」
叫び返した自分の声が震えていた。
工房へ戻ると、ムエイルが床いっぱいに地図を広げていた。
赤い印は感染確認。青は種籾用。黄は冬越し用。脇には水路ごとの流量、残る発酵液、収量予測が細かく書かれている。
「残る培養液を均等に撒けば、全部で不足します」
ムエイルは淡々と言った。
「今夜中に仕込める分を足しても、効果が確認できている濃さで守れるのは十六枚中、よくて十一枚。しかも全区画へ少しずつ回せば、作業が遅れて病斑の増加に追いつきません」
地図の端には、年貢米、冬越し米、来年の種籾という三つの数字が並んでいた。どれか一つだけを最大にすればいいわけではない。種籾を失えば翌年が消え、冬米を削れば春までに人が飢え、年貢を割れば追加徴収で同じことが起きる。
「薄められないか」
ミルヴァが首を振る。
「今の散布器じゃ限界。薄めすぎれば効く濃さを下回る」
「人手は?」
「水門対応を含めれば足りません」
ムエイルが三本の線を地図に引いた。
「選びます。種籾を残す田。冬を越す米を取る田。それ以外」
最後の線だけ、言葉がなかった。
アキムは意味を理解した。
「……捨てる田か」
「はい」
雨戸を叩く音が急に大きく聞こえた。
その場にいた農家の一人が立ち上がった。
「俺の田はどれだ」
ムエイルが地図を見る。
「西三番水路。現在の病斑率と浸水量では、救援対象から外した方が全体収量は上がります」
「外す?」
男の顔が歪んだ。
「今年一年、俺たちが何してきたと思ってる!」
拳が机を叩いた。
「数字一つで捨てるのか! お前らは助けるって言っただろ!」
アキムは答えようとして、声が出なかった。
男の田を救えば、別の田から培養液を削ることになる。
その田を救えば、さらに別の家の冬米が減る。
正解などない。
あるのは、どこに損失を押しつけるかという決断だけだった。
「……怖い」
自分でも驚くほど、はっきり口に出た。
男が睨む。
「何だと」
「俺が決めるのが怖い。あなたの田を外して、それが間違ってたらって考える。あなたに恨まれるのも怖い」
前世で見た実験結果なら、失敗しても次の試験を組めた。だが今、表の一行は誰かの田で、数字の一つは誰かの冬だった。顕微鏡の向こうだけを見ていた頃には、こんな重さを知らなかった。
喉が熱くなった。
「でも、全部を助けられるふりをしたら、もっと多く失う」
アキムは地図の前へ進んだ。
「種籾用の四区画を最優先。冬越し用は、流入が少なくて今から守れば収量が残る七区画。西三番を含む五区画は、水門を切って流入だけ止める。培養液は回さない」
言い切ると、胃の奥が重く沈んだ。
「来年、最初に種籾と改造灯を回す。記録も残す。今ここで切り捨てたことを、なかったことにはしない」
男はしばらく何も言わなかった。
やがて顔を背ける。
「……覚えとけよ」
「覚えてる」
それしか返せなかった。
ムエイルは一度だけアキムを見てから、すぐ配置表を書き換えた。
「では、この順です。三時間ごとに収量予測を更新します。条件が変われば救援順も変えます」
アンは濡れた外套を掴んだ。
「私は各水門へ限定浄化の担当を送ります。濁りが濃い場所だけに絞ります」
「俺は主水門へ行く」
ディーヴオンが言った。
「上流を止められれば、下の七区画が生きる」
「俺も――」
「お前はここにいろ」
即座に遮られた。
「優先順位を決めた奴が、状況を見失うな。俺は俺の仕事をする」
ディーヴオンは笑った。
「いい判断だった。だから次も頼む」
他人の成功を祝うような、いつもの顔だった。
隊が出てから一時間後。
雨はさらに激しくなった。
ムエイルが新しい数字を読み上げ、アキムが散布先を一つ変更した、そのときだった。
扉が乱暴に開いた。
泥まみれの兵が転がり込む。
「主水門へ向かった隊が――!」
息を吸う。
「山道で土砂崩れです! 道が完全に埋まりました。隊長たちは向こう側に孤立しています!」
アキムは立ち上がった。
地図の主水門に、赤い雨粒が落ちた。
そこを失えば、さっき選んだ七区画も守れない。
コメント
1件
みぅ🤍🥀だよ 第9話、読んだよ……「全部は救えない」ってタイトルが、もう重くて。アキムが「怖い」って口にしたところ、すごく刺さった。数字の向こうに人の冬が、家族の1年が乗ってるんだもんね。誰かを切る覚悟を口にしたあと、ディーヴオンが「いい判断だった」って笑ったシーン、泣きそうになった。最後の土砂崩れで追い打ち…続きが気になりすぎる🌙