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コメント
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帽子の能力にちゃんと代償や制限があるのがいいですね。「歩いた記憶がなければ道はなく、消耗する」という設定が、アキムの選択に重みを与えていて好きです。便利な奇跡じゃなくて、自分の足で刻んできた痕跡が道になる――その一文に胸を打たれました。五つの水門と一つの培養種、この雨の中どうするのか続きがすごく気になります。お疲れさまです、今週もぐっとくる回でした🌷
「土砂崩れはどこまで続いてる」
アキムは地図へ身を乗り出した。
泥まみれの兵が震える指で山道をなぞる。
「この尾根から谷までです。徒歩では越えられません。迂回路は……少なくとも半日」
「半日じゃ主水門がもたない」
ムエイルが即座に数字を出した。
「現在の雨量なら、四時間以内に上流側の水位が危険線を越えます。隊長たちが水門を閉じても、培養液なしでは濁水を下へ流すだけになります」
机の上には、残った培養種の壺が一つ。
届けなければならない。
だが道がない。
アキムは工房の壁に掛けていた銀色の帽子へ目を向けた。
あれで病斑の痕跡を見た。銀翅蛾の飛んだ道も見た。
そして誘蛾灯の夜、聞いた。
――いったいどこへ行きたいの。
「アキム?」
アンの声を背に、帽子を取った。
被った瞬間、世界の輪郭が薄くなる。
工房の床から、細い銀線が何本も伸びていた。
試験田。発酵壺を運んだ納屋。教会前の広場。何度も泥靴で往復した水路。
見覚えのある場所へ向かう線ほど濃い。
「道……なのか」
アキムは目を閉じた。
前世の景色を思い浮かべる。
祖父母の水田。夏の朝、稲葉についた露。畦の端に置かれた古い長靴。顕微鏡を買ってもらった日に、祖父が笑った顔。
帰りたいと思ったことは、一度や二度ではない。
胸の奥が痛くなるほど鮮明なのに――銀線は一本も現れなかった。
「そうか」
帽子は、願った場所へ連れていく道具ではない。
少なくとも、前世へ帰る扉ではない。
この世界で自分の足が刻んだ痕跡。それを拾っている。
ならば転移そのものの手掛かりにはなるかもしれない。だが今、調べるべきことは別だった。
アキムは地図の主水門を見た。
一度だけ行った場所ではない。ディーヴオンと泥をさらい、流量を測り、何度も行き来した。
銀線が太く光る。
耳元で、あの声がした。
――いったいどこへ行きたいの。
「主水門」
答えた瞬間、足元が消えた。
落ちた、と思った。
だが次に踏んだのは床ではなく、濡れた石だった。
背後で轟音がする。
振り返ると、工房はない。
目の前には崩れた山肌があり、その向こうで松明が揺れていた。
「……何だ、今の」
距離にすれば数十歩。
#ライトノベル
こはる
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#異世界転移
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ケモノ好きな兄貴
31
土砂で完全に塞がれた区間だけが、折り畳まれたように消えていた。
膝から力が抜け、アキムは石へ手をついた。
頭の奥が焼けるように痛い。
帽子の縁から、銀色の薄膜が一片、雨に剥がれて流れた。
「アキム!」
土砂の向こうからディーヴオンが駆けてくる。
「どうやって来た!」
「説明は……あとだ」
アキムは抱えていた壺を差し出した。
「培養種。主水門の上流側へ入れてくれ。全部じゃない。ここから下の希釈量なら三分の一で足りる」
ディーヴオンは壺を受け取り、すぐ兵へ指示を飛ばした。
「聞いたな! 三分の一だ! 残りは次の水門へ回せ!」
誰もアキムの奇妙な出現を問いたださなかった。
今は水の方が速い。
二人で水門へ走る。
濁流は板壁を殴り、軋む音を立てていた。培養液を投入すると、茶色い水面へ白い泡が広がる。
アキムは震える手で水をすくい、匂いを確かめた。
「これなら持つ。少なくとも夜までは」
ディーヴオンが大きく息を吐いた。
「また、お前に助けられたな」
「まだだよ。帰らないと」
アキムは帽子へ手をかけた。
もう一度、工房を思い浮かべる。
銀線は見えた。
しかし帽子を通じて頭へ針を刺されるような痛みが走る。
銀膜がまた小さく剥がれた。
「……無理だ」
続けて使えば、帽子そのものが駄目になる。
それ以上に、自分が倒れる。
アキムは帽子を脱いだ。
「帰りは歩く」
「道は埋まってるぞ」
「水門の保守路なら谷の北を回れる。前に一緒に点検しただろ」
ディーヴオンは一瞬黙り、それから笑った。
「そうだったな。なら俺も途中まで行く」
「ここを離れられないだろ」
「じゃあ部下をつける」
「それもいらない。みんな水門に必要だ」
アキムは帽子を握り直した。
銀色は、縁の一角だけ灰色になっている。
便利な奇跡ではない。
歩いた記憶がなければ道はなく、一度に越えられるのはわずかな距離。使えば確実に消耗する。
けれど、これは自分がこの世界へ来た理由を調べる、初めての具体的な手掛かりでもあった。
失いたくない。
そう思った自分を、アキムは否定しなかった。
「大事に使う。だから今は使わない」
夜半近く、アキムは泥だらけで工房へ戻った。
ムエイルが無言で新しい表を差し出す。
五か所の水門名。
その横に、赤い数字が並んでいた。
「最大増水は明日の夜です」
アンが残った培養種を指した。
「守るべき水門は五つ」
ミルヴァが桶の底を覗き込み、唇を噛む。
「でも、残ってる元種は……これだけ」
一つの桶。
五つの水門。
窓の外で、また雨脚が強くなった。