テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#異世界転移
花月夜れん
1,321
#魔道具職人
こはる
1,163
297
フユめん
498
「土砂崩れはどこまで続いてる」
アキムは地図へ身を乗り出した。
泥まみれの兵が震える指で山道をなぞる。
「この尾根から谷までです。徒歩では越えられません。迂回路は……少なくとも半日」
「半日じゃ主水門がもたない」
ムエイルが即座に数字を出した。
「現在の雨量なら、四時間以内に上流側の水位が危険線を越えます。隊長たちが水門を閉じても、培養液なしでは濁水を下へ流すだけになります」
机の上には、残った培養種の壺が一つ。
届けなければならない。
だが道がない。
アキムは工房の壁に掛けていた銀色の帽子へ目を向けた。
あれで病斑の痕跡を見た。銀翅蛾の飛んだ道も見た。
そして誘蛾灯の夜、聞いた。
――いったいどこへ行きたいの。
「アキム?」
アンの声を背に、帽子を取った。
被った瞬間、世界の輪郭が薄くなる。
工房の床から、細い銀線が何本も伸びていた。
試験田。発酵壺を運んだ納屋。教会前の広場。何度も泥靴で往復した水路。
見覚えのある場所へ向かう線ほど濃い。
「道……なのか」
アキムは目を閉じた。
前世の景色を思い浮かべる。
祖父母の水田。夏の朝、稲葉についた露。畦の端に置かれた古い長靴。顕微鏡を買ってもらった日に、祖父が笑った顔。
帰りたいと思ったことは、一度や二度ではない。
胸の奥が痛くなるほど鮮明なのに――銀線は一本も現れなかった。
「そうか」
帽子は、願った場所へ連れていく道具ではない。
少なくとも、前世へ帰る扉ではない。
この世界で自分の足が刻んだ痕跡。それを拾っている。
ならば転移そのものの手掛かりにはなるかもしれない。だが今、調べるべきことは別だった。
アキムは地図の主水門を見た。
一度だけ行った場所ではない。ディーヴオンと泥をさらい、流量を測り、何度も行き来した。
銀線が太く光る。
耳元で、あの声がした。
――いったいどこへ行きたいの。
「主水門」
答えた瞬間、足元が消えた。
落ちた、と思った。
だが次に踏んだのは床ではなく、濡れた石だった。
背後で轟音がする。
振り返ると、工房はない。
目の前には崩れた山肌があり、その向こうで松明が揺れていた。
「……何だ、今の」
距離にすれば数十歩。
土砂で完全に塞がれた区間だけが、折り畳まれたように消えていた。
膝から力が抜け、アキムは石へ手をついた。
頭の奥が焼けるように痛い。
帽子の縁から、銀色の薄膜が一片、雨に剥がれて流れた。
「アキム!」
土砂の向こうからディーヴオンが駆けてくる。
「どうやって来た!」
「説明は……あとだ」
アキムは抱えていた壺を差し出した。
「培養種。主水門の上流側へ入れてくれ。全部じゃない。ここから下の希釈量なら三分の一で足りる」
ディーヴオンは壺を受け取り、すぐ兵へ指示を飛ばした。
「聞いたな! 三分の一だ! 残りは次の水門へ回せ!」
誰もアキムの奇妙な出現を問いたださなかった。
今は水の方が速い。
二人で水門へ走る。
濁流は板壁を殴り、軋む音を立てていた。培養液を投入すると、茶色い水面へ白い泡が広がる。
アキムは震える手で水をすくい、匂いを確かめた。
「これなら持つ。少なくとも夜までは」
ディーヴオンが大きく息を吐いた。
「また、お前に助けられたな」
「まだだよ。帰らないと」
アキムは帽子へ手をかけた。
もう一度、工房を思い浮かべる。
銀線は見えた。
しかし帽子を通じて頭へ針を刺されるような痛みが走る。
銀膜がまた小さく剥がれた。
「……無理だ」
続けて使えば、帽子そのものが駄目になる。
それ以上に、自分が倒れる。
アキムは帽子を脱いだ。
「帰りは歩く」
「道は埋まってるぞ」
「水門の保守路なら谷の北を回れる。前に一緒に点検しただろ」
ディーヴオンは一瞬黙り、それから笑った。
「そうだったな。なら俺も途中まで行く」
「ここを離れられないだろ」
「じゃあ部下をつける」
「それもいらない。みんな水門に必要だ」
アキムは帽子を握り直した。
銀色は、縁の一角だけ灰色になっている。
便利な奇跡ではない。
歩いた記憶がなければ道はなく、一度に越えられるのはわずかな距離。使えば確実に消耗する。
けれど、これは自分がこの世界へ来た理由を調べる、初めての具体的な手掛かりでもあった。
失いたくない。
そう思った自分を、アキムは否定しなかった。
「大事に使う。だから今は使わない」
夜半近く、アキムは泥だらけで工房へ戻った。
ムエイルが無言で新しい表を差し出す。
五か所の水門名。
その横に、赤い数字が並んでいた。
「最大増水は明日の夜です」
アンが残った培養種を指した。
「守るべき水門は五つ」
ミルヴァが桶の底を覗き込み、唇を噛む。
「でも、残ってる元種は……これだけ」
一つの桶。
五つの水門。
窓の外で、また雨脚が強くなった。
コメント
1件
帽子の能力にちゃんと代償や制限があるのがいいですね。「歩いた記憶がなければ道はなく、消耗する」という設定が、アキムの選択に重みを与えていて好きです。便利な奇跡じゃなくて、自分の足で刻んできた痕跡が道になる――その一文に胸を打たれました。五つの水門と一つの培養種、この雨の中どうするのか続きがすごく気になります。お疲れさまです、今週もぐっとくる回でした🌷