その時優弥は杏樹の視線を感じていた。
しかしあえて気付かないふりをする。それには訳があった。
今優弥の腕に手を掛けている女性は藤原京香(ふじわらきょうか)・30歳。
京香は以前優弥が経営企画部にいた時の後輩だった。
京香は本部にいる一部の人間にはトラブルメーカーとして知られている。
それは常に色恋沙汰のトラブルだ。
つまり京香は地雷女なのだ。
もし優弥が杏樹に視線を向ければ勘のいい京香は気付くだろう。二人の関係を。
だから優弥は杏樹を見る事は出来なかった。
京香は以前優弥の同期の作田(さくた)という行員と不倫関係にあった。
作田は既婚者でとてもまじめな行員だった。しかし京香からの罠にかかりついうっかり男女の関係に陥ってしまう。
しばらく京香と付き合っていた作田は急に目が覚めたのか最終的には妻を選び元鞘に収まった。
それが京香のプライドをズタズタにしたのだろう。怒った京香は作田との関係を銀行にバラしてしまう。
その結果作田は地方の小さな支店へ飛ばされた。
その際処分は男性側の作田のみで京香はそのまま経営企画部に残ったままだった。
その事から京香はコネ入社なのではないかと噂されるようになる。
京香はその後もいくつかのトラブルを起こし、見かねた人事部が京香を検査部へ異動させる。
もちろん京香は納得していなかったが人事部からの命令とあれば従うしかない。
しかしそんな時検査へ入った支店で以前狙っていた優弥に再会したのだ。京香のテンションが上がらないはずがない。
「黒崎さぁん、あっちで食べましょうよ」
京香が杏樹達が座っている隣の席を指差したので優弥はギョッとする。
しかし京香は既にそちらへ向かったので仕方なく優弥もついていった。
「ちょっと…二人がこっちに来るわよ」
「…………」
沙織が小声で囁いたが杏樹は何も言えなかった。
そして二人が隣に座ったので杏樹達は優弥に挨拶をした。
「「お疲れ様です」」
「お疲れ!」
その時、京香が隣にいる二人を値踏みするように見つめている。
その視線は突き刺さるような鋭い視線だった。
もちろん沙織も気づいていた。
沙織も居心地が悪いのか、杏樹に口だけを動かしてこう言った。
『早く食べちゃおうよ』
その言葉に杏樹は頷く。
その時、鋭い視線からは想像もつかない程の艶のある色っぽい声が聞こえてきた。
「黒崎さんがまだ独身だなんて信じられなーい。いい人いるんじゃないですかぁ?」
「ハハッ、どうかな」
「あーやだぁ、また笑ってごまかしてるぅ」
「ごまかしてなんかいませんよ。それに今は検査中ですからそういった会話は慎んだ方がいいのでは?」
「えー? 昼休みくらいいいじゃないですかぁ。あ、じゃあこうします? 検査の最終日にお食事に付き合って下さるなら我慢しますけど」
京香は大胆にも優弥を誘った。しかし優弥は笑いを浮かべながら何も答えずに食事を続けている。
「えーっ? 無視ですかぁ? ひどーい。それに昔二人で行ったじゃないですかぁ、素敵な夜景が見えるバーに」
その言葉に優弥が反応する。
(まずいぞ……杏樹に誤解されたら困る)
そこで優弥は穏やかに言った。
「あの時は話があるって君が呼び出したんだよね? たしか店も君が指定した店だったし」
優弥は自分から誘っていない事を強調している。
「そうでした? でもあの夜景……素敵だったわあ……」
京香はあくまでも夜景の素敵なバーで二人きりで飲んだ事を強調する。
その時杏樹はチラリと優弥を見たが優弥は目を合わせない。
あえてこちらを見ないようにしているようだ。
その時杏樹がガタンと椅子の音を立てて立ち上がった。
「ご、ご馳走様。お先に失礼します」
「あ、杏樹……ちょっと待って」
ちょうど食事を終えた沙織も慌てて立ち上がると副支店長に向かって「お先に失礼します」と声をかけてから食堂を後にした。
(まずい……完全に誤解されたな……非常にまずいぞ)
その時京香は勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
その日の午後、杏樹はずっと悶々としていた。
(二人は昔付き合っていたの? あの女性は副支店長の元カノなの? 副支店長はなぜ私と目を合わせないの?)
正輝に振られた直後と同じような感覚が杏樹を襲う。
恋人から必要とされなくなったみじめさを痛いほど味わった杏樹は、再びあの時と同じような暗い泥沼の底へ落ちて行くような気がした。
その日どこへも寄らずにマンションへ戻った杏樹は、シャワーを浴びて買って来た弁当を食べるとすぐに寝た。
起きていると色々な事を考えてしまいいい事などない。こういう時は早寝するに限る。
検査の緊張と京香のせいでぐったりと疲れていた杏樹は午後10時前には既に眠りに落ちていた。
杏樹がぐっすり眠っている時、リビングのテーブルの上にある杏樹のスマホが虚しく光っていた。
翌朝、ぐっすり眠ったお陰で杏樹は少しだけ気分良く目覚めた。
杏樹はうーんと伸びをした後時計を見て驚く。
「キャッ! 寝坊しちゃった、どうしよう!」
それからバタバタと身支度をすると杏樹は朝食も食べずに急いで家を出た。
リビングテーブルの上にはすっかり忘れ去られた杏樹のスマホが虚しく光っていた。
コメント
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あらっ、何だか心配な展開に😨スマホも忘れちゃうし、すれ違いにならないといいけど。
あららら。 優弥さん、きっと今頃ソワソワしてるだろうなぁ💦
わかりやすい嫌な女。日の丸嬢さんと同類だね。 副支店長は杏樹ちゃんと連絡取れなくてアワアワしてるよね。 笑っちゃいけないけど…なんかアワアワしてる姿を想像すると、ね…😁