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――地獄道
まるでエアトランポリンのように床は不気味に浮き沈みし、私は転んでしまわないよう必死で身体を踏ん張らせていた。頭上ではどこかで聞いた流行りの音楽が大爆音で流れ、鼓膜をつんざいている。
……ここはどこだろう?
私は驚くほどだだっ広い空間にいた。一見、何かの施設のロビーみたいだけれど、私が知っているものとは一致しない。
そこらに置かれたソファーは革が破れひっくり返されていたし、大きな鉢に植えられた観葉植物はどれもボロボロで水も与えられていないのか、すっかり彼果てていた。まるで廃墟のようなその場所を無言で行き交うのは、黒い靄のような人影。
気持ちが悪い。胃がムカムカする。マキオを抱きかかえていなければ吐いてしまったかもしれない。
……マキオ?
そうだ。私は今、息子を胸に抱いている。私によく似て癇癪持ち、些細なことですぐ泣くし火がついたように怒る。
だけど、笑うとひまわりの花が咲いたように可愛くて、その声は鈴を鳴らしたように耳に心地よくて……。
だけど今、マキオは私の胸の中でぐったりとしている。両目を固くつむり、うう、うう、と低く呻いている。汗にしめったマキオの前髪を少しかきあげ、額に触れてみる。
……熱い。すごい熱。
それに手に、右手に酷い怪我をしている。ポタポタ、と音を立てて赤い鮮血が滴り落ちている。手のひらには鋭い切り傷。
やっと、私は思い出していた。ついさっきのことだ。
アンチを名乗る人物から殺害予告付きのカミソリ入り封筒をマキオが受け取り、開封してしまったのだ。
こんな事にならないよう、警戒するよう岡崎社長にはずっと注意されていたし、私自身気をつけているつもりだったのに。
警告を発する間もなく、目の前でマキオを傷つけられてしまった。
全部、私が愚図だからだ。
「――助けて!」
マキオを胸に強く抱きしめたまま、私は叫んだ。
「子供が怪我をしているんです! どなたか、救急車を呼んでもらえませんか!」
だけど、私の訴えに応えてくれるものはなかった。
黒い靄のような人影は相変わらず無言のまま、私達の目の前を通り過ぎるだけだった。
まるで私の声が聞こえず、姿が見えないみたいに。
私達なんか、そこに存在しないみたいに。
なんて、やつら! 困っているって、こんなに訴えているのに!
土足で顔を踏みにじられたかのような屈辱を覚え、私は涙を噛みしめる。
……いや、そうじゃない。
分かっているはずだ。
他者に助けを求めることが間違いだ。他者に何かを期待すること自体、間違いだ。
これまで取り引きに応じてくれる人はいたとしても、何の見返りもなく力を貸してくれることなどなかったじゃないか。
そう、ただの一度も。
「……ごめんね。私なんかが母親で。本当にごめんね」
力なく、私はその場にひざまずき、マキオの小さな肩に顔をうずめてすすり泣いていた。
情けない。みっともない。子どもに詫びる振りをしながら、本当は自分を哀れでいる。こんな哀れな馬鹿女、地獄の底に沈めばいい……。
「――あぴゃぴゃぴゃぴゃ。同感でぇーす」
すぐ頭の上から声が聞こえた。
男のものとも女のものともつかない、明るく軋んだ声。
チューニングの合っていないラジオのようなざらついたノイズが混じった。
私は顔をあげる。
地面から二、三メートル離れた位置に見知らぬ顔があった。
磁器のように真っ白で、凝り固まったような笑顔を浮かべている。それが仮面であると悟るのに数秒かかった。
そいつは真っ黒い、枯れ枝のようにねじ曲がった胴体を持つ異形だった。節くれ立ち、爪先を細かい獣毛で包まれた脚を蠢かせながらそいつは言った。
「お、お子さん、ちょ、調子が悪いんですかぁー? み、診てあげまーす」
「……え?」
呆然と私は問い返していた。
そいつのあまりにも非現実的な姿に恐怖すら忘れて。
「はぁーい。ちょ、ちょいと失礼しますねぇー」
明るくいびつな声で言って、腕と思しき部位を伸ばして来る異形。
声をあげる間もなく、ヒョイと私はマキオを奪い取られていた。
「ちょ、ちょっと! 何すんの!?」私は叫んでいた。
「返してよ! 私の子! マキオは私の……!」
「あーあー……。ざ、残念ですけれどもぉー」
マキオを取り戻そうと両腕を伸ばし、その場で飛び跳ねる私を完全に無視し、トントンと指先で息子の薄い胸板を突く異形。
「も、もう、死んでますねぇー。この子はもう、し、死んでますぅー」
私は絶句する。
こいつは一体、何を言い出すんだろう?
そんなわけない。マキオが死んでいるわけがない。
よく病気になったり、よく癇癪を起こして手は焼けるけれど、マキオはいつも私の側にいてくれて、だから私はこの子を守らなきゃと思って。
反論にもならない反論の言葉がいくつも私の頭の中に浮かんでは消えてゆく。
だけど……、なぜかそれを声に出すことはできなかった。
どうしても。
「だ、だから、この子は、わ、私の好きにしてもよい、という、す、寸法なのですぅー」
また異形が訳のわからないことを言って笑った。
それから、異形は両手につかんだマキオの身体を少し捻じ曲げ――、引き千切る。
胴と腰から下を真っ二つに。 ビシャビシャと湿り気のある音を立てて、マキオの内臓や大量の血液が床に散らばっていた。
どうしよう。
髪を掻きむしり、声の限りに絶叫しながら私は思った。
戻してあげないと。マキオのお腹の中身を全部。だけど.
集めている間に大事な場所を傷つけたり、取りこぼしたりしたら。
「大丈夫、大丈夫。この子は、もう死体ですから。ただの屍ですからー」
凍てついた笑顔のまま、マキオの返り血を浴びた異形があぴゃぴゃぴゃと耳障りな声でまた笑った。