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――2026年 7月22日 午後二時四十分
■■県童ノ宮市湯山町北池■■ー■
童ノ宮ふれあいミュージアム
「――さん。 ミサキさん……」
誰かが私の名前を呼んでいる。肩を遠慮気味に揺さぶっている。
優しげなその声に私はゆっくり目を開いていた。
目に飛び込んできたのは心配そうに私の顔を覗き込んで来る、小柄な女の子。
可愛い子だな、と私は思った。それに凄くいい子っぽい。だけど誰だったけ? 頭の中がモヤモヤとして、すぐには思い出せない。
ええっと、確かこの子は――。
「つ、塚森キミカ……!?」
その名前をはっきりと思い出した瞬間、電撃のように耐えがたい嫌悪感が全身を貫く。悲鳴をあげて私は大きく身体をのけ反らせていた。危うく、女の子の横っ面を引っ叩きそうになるのを辛うじて抑え込んで。
女の子――塚森キミカは目を丸くして私を見つめていた。
わけがわからないという表情だ。当然だろう。当の私でさえ、自分がなぜ、ここまで取り乱しているのか説明できないんだから。
彼女は地元の名士の娘さんで私達親子の案内係……。
まだ中学一年生とは思えないほど親切で、マキオのことも可愛がってくれている。マキオも彼女になついていて、恥ずかしながら私は嫉妬さえ覚えていて……。
……いや、待て待て。何を考えているんだ、私は。子供相手に嫉妬とか。 だけど、どう否定しようと私の中に塚森キミカ――いや、キミカちゃんに対する敵愾心のようなモノが芽生えているのは確かだった。得体の知れない恐怖心も。
どう考えても私が間違っている.
自分でも頭がおかしいとしか思えない。
「……あの、ミサキさん。ホンマに大丈夫?」
そのお嬢さんを思わず呼び捨てにしてしまった、恥ずかしさと後ろめたさに思わず目を伏せた私にキミカちゃんが重ねて呼びかけてくる。
その口調は相変わらず、優しかった。
「ミネラルウォーター、買って来てんけど。――飲まへん?」
「あ、ありがとう……」
キミカちゃんに勧められるまま、私はそのペットボトルを受け取っていた。
冷たい水で喉を潤すと、次第に頭の中のモヤが晴れてゆき、思考に整理がつき、何とか状況が把握できた。
私達親子が童ノ宮と言う街を訪れて、今日で二日目。
先日、あちこち歩き回った疲れていたせいか、ボーッとしていてあまり細かくは覚えていないが、ホテルまでキミカちゃんが迎えに来てくれたのだ。
そして、そこからタクシーに乗り、三十分ほどで連れてこられたのが、ここ、童ノ宮ふれあいミュージアム。一言でいえば童ノ宮に伝わる、稚児天狗伝承にまつわる民俗資料館なのだが……。
エントランスに一歩足を踏み入れた瞬間、私は気が遠くなった。
足がすくみ、全身から血の気が引き、背中に冷たいものが溢れた。マキオもキミカちゃんも平然としていたのが全く理解できなかった。
私達を出迎えたのは燃えるような真っ赤な肌、長い鼻、金色にギラリと光る相貌を持つ厳めしい顔。正確に言えば面だ。
ゾッとするほど険しい表情を浮かべた天狗の面。
天狗面と言っても昨日見た、天狗庵の神棚に飾られていたものとは比べ物にならないほど大きい。縦の長さが三メートル、横幅が七五センチもあるそうだ。
「うちも話に聞いただけなんやけど――」
呆然とする私にキミカちゃんはニコニコしながら教えてくれた。
「江戸時代、物の怪から子供を童ノ宮の神様に救ってもらった面打ち職人が感謝の証として奉納してんて。長い間、御神体としてお祀りされとってんけど、昭和の中頃、新しいものと取り換えられて……。いろいろあって、ここに寄贈されることになったんやって」
なるほど、と私は思った。元々は塚森家――、童ノ宮の所有物だったのか。
恐らく、宝物殿に収まりきらなくなった品をこちらに回しているんだろう。
と言うことは、ふれあいミュージアムなんて気安そうなネーミングとは裏腹にここは……。
エントランスから展示ルームに歩を進め、私の嫌な予感は確信に変わった。
柔らかな照明の光に照らしつけられ、高級時計や宝石のようにショーケースに収められていたのは――、儀礼用と思しき、錆びついた刀剣。
羽根の部分がほとんど抜け落ちてしまった、巨大な紅葉のような形をした所謂天狗団扇。目も鮮やかな朱色に彩られた一つ歯の高下駄。
木製の錫杖の先端は槍のように鋭く尖っており、五メートルもの長さに広げられた血のような赤でそのすべてを上書きされた経文といった怪しげな品の数々。
そのどれもが不吉で生々しく、強烈なエネルギーを放っているようで私は見ているだけで心が蝕まれるゾワゾワとした感覚を覚えた。だけど、本当に圧巻だったのはメインの展示ルーム、壁一面を覆った巨大な絵巻だった。
「……この絵巻がいつ、誰に作られたのかははっきりせぇへんねんけど――」
その迫力に圧倒されて言葉を失い、ただ見上げる事しかできないでいる私の横に立ち、キミカちゃんがそっとささやいた。
「この絵巻な、一時、東京の資産家たちの手に渡って大震災や空襲も体験してんねんて。持ち主はみんな死んでもて、この絵巻だけが焼け残ったから呪いの絵巻や災いやとか心無い噂を立てられて。つい最近になって、お父さんが取り戻したんやって」
呪いの絵巻、か。十日ほど前の私ならそんなことを言われても、一笑に伏しただけだったと思う。
だけど、この街に来てからは――何かが違う。自分でも驚くぐらい苛々しているし、追い詰められた気分になっている。より気持ち悪いのが、それが具体的に何なのかイマイチはっきりしないところだ。
いや、そんなことより……。
童ノ宮市が誇る国宝級の絵巻とやらは、呪いだの祟りだの関係なしにマキオのような小さな子供にはとてもじゃないけれど見せられないシロモノだった。
いや、マキオのような幼児だけじゃない。キミカちゃんぐらいの青少年にだって精神衛生上、良いとは到底思えなかった。
それは童ノ宮の縁起――、神様である稚児天狗誕生の物語を描いたものだった。
①その昔、湯山の里に数名の武士と乳母にともなわれ、幼い男の子が都から落ち延びて来た。
②男の子はさる身分の高い貴族のご落胤だったが左にこの世の地獄を映し出す霊力のこもった目を持っていたため、実の肉親からもえぐり取られそうになり、忠臣たちに守られ逃げてきたのだ。
③誰から教わらなくとも一人で経文を読み書きし、加持祈祷によって魔を払い憑き物を落とし、人々の病を癒した男の子は御曹司と呼ばれ、地元だけではなく遠方からも多くの支持者を集め、生き仏と崇め奉られるようになる。
④しかし、「外法眼」を持つ御曹司の噂を聞きつけ、反乱を危惧した朝廷は千人もの兵を遣わしてこれを討伐しようとする。
⑤御曹司のもとに集まった人々は都側の稚児を引き渡せ、と言う命令を拒み、徹底抗戦を試みるが、ことごとく討死する。
⑥御曹司は追手に捕えられ、その右目を抉りだされて命を失うが、
⑦後に怨霊と化し、夜な夜な都に現れては誰彼かまわず襲いかかり、食い殺す怪異になってしまった。
⑧人々は稚児天狗と呼んで御曹司を哀れみ、生前の彼に仕えた祭祀集団、墓守衆と協力し合い、その魂を神として祀り上げ、鎮めることに成功したのだった……。
ひどい。何なのこれ……。
絵巻と展示パネルの右下に設けられた解説文を見比べながら、私は絶句していた。
東京で岡崎社長に渡された児童書を読んでいたからある程度は覚悟していたが、まさかここまで凄惨な内容とは思わなかった。
特に⑦番目がひどい。
絵巻でのシーンは貴族の屋敷、その長い回廊。
まだ幼い子供と思しき人物が両手を広げて立っているのだが、その顔は真っ赤に変色していて、大きく開いた顎の上下にはケダモノみたいなギザギザの牙が生えているのが見えた。背中には一対の大きな翼が周囲を威嚇するように広げられている。これが稚児天狗なのだろうか?
その周りには稚児天狗の犠牲者達なのだろう。バラバラに切り刻まれ、血の池に沈んだ大勢の男や女、それに子供や老人の死体、死体、死体……。
生まれた時から親の愛にも恵まれず、やれ御祈祷だの生き仏様だのさんざん他人に搾取され続け、これ以上ないってぐらい苦痛にまみれた最期を迎えた男の子が死んでも死にきれず、人殺しの化け物になり果てる。これをこの世の地獄と言わずして何と言うんだろう。
一応、最後は心ある人々の手によって救われた風に描かれ、物語としての整合性は取られてはいるが……、どう解釈しようがハッピーエンドとは程遠い。
絵巻のあまりに血塗れな描写に私はすっかり気分が悪くなり、私だけロビーのソファーに避難し、休憩させてもらっていたというわけだ。意識が朦朧とし、何だかすさまじく嫌な夢を見ていた気もするが、どんな内容だったのか、全く覚えていない。
「あの、キミカちゃん。うちの子、マキオの姿が見えないんだけど……」
「あ、大丈夫やで」答えるキミカちゃんはやはり屈託がなかった。
「マー君ならあっちの特設ルームにおるよ。今、街がお祭りの真っ最中やから、稚児天狗の体験イベント開催中やねん。夢中になってるみたいやし、ミサキさんも見てあげたって」