テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第92話 水帰と安心整理行動
朝の安心センター前。
建物の外壁は灰色で、案内灯だけが淡緑に光っている。
空気は一定で、外の寒さも暑さも感じられない。
まひろは少し大きめの水色の上着を着ていた。
袖が手の甲にかかり、指先だけが出ている。
髪は寝癖のまま結ばれていない。
足元は柔らかい運動靴で、まだ新しい。
隣に立つ母親は、モカ色のコート。
肩にかかる髪を低い位置でまとめ、
目の下に薄く影がある。
手には安心センターの案内紙を折りたたんで持っていた。
入口の表示が切り替わる。
受付
心理
整理
まひろは文字を一つずつ追い、首をかしげる。
「おばちゃん、どうなったの?」
母親は少しだけ間を置く。
視線は表示から外れない。
「水に帰ったよ。水帰」
まひろはそれを聞いて、すぐにうなずいた。
眉は動かず、口元も変わらない。
「そっか。じゃあ、もうだいじょうぶだね」
それ以上、聞かない。
水帰という言葉で、終わっている。
安心段階2以下の子どもにとって、
それは十分な説明だった。
受付を通ると、端末が一瞬光る。
まひろの表示は短い。
説明完了
追加対応不要
母親の端末は、少し遅れて振動した。
安心整理行動 要実施
心理区画へ、矢印が伸びる。
母親は軽く息を吐き、まひろの肩に手を置いた。
「先に座って待ってて」
まひろは床の光に沿って進き、
低い椅子に腰を下ろす。
足は床につかない。
心理区画の奥では、
母親が椅子に座らされている。
壁には、揺れのない水面の映像。
一定の明るさ、一定の色。
質問が表示される。
喪失に意味を見出そうとしたか
感謝や呼びかけを行おうとしたか
対象に何かが伝わると感じたか
母親は画面を見つめ、
ゆっくりと首を振る。
それでも、端末は次の工程を示す。
整理開始
発声指示。
短い文が表示される。
意味は問われない。
声を出すこと自体が、刺激制御になる。
母親は指示どおりに声を出す。
感情は抑えられ、
それでも喉だけが少し震える。
一方、待合のまひろは、
壁の表示を見ていない。
足をぶらぶらさせながら、
水の映像だけを眺めている。
水に帰る。
それで終わり。
それ以上の整理は、必要ない。
やがて母親が戻ってくる。
顔色は変わらないが、
肩の力がわずかに抜けている。
「もう帰れる?」
「うん。終わった」
安心整理行動 完了
安心値 基準内
出口を出ると、街はいつも通り動いている。
誰も立ち止まらず、
誰も振り返らない。
まひろは母親の手を引いた。
「水って、また雨になる?」
母親は一瞬だけ考え、
そのまま答える。
「そうなるかもね」
まひろは満足そうにうなずく。
「じゃあ、またどこかで降るね」
大和国では、
子どもは水帰で足りる。
大人だけが、
整理を必要とする。