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その日は、特別なことをしなかった。
昼ご飯を食べて、少し歩いて、本屋に寄った。
それだけ。
でも、私はそれが嫌じゃなかった。
むしろ、こういう時間の方が落ち着く。
店では、常に何かを話している。
相手の表情を見る。声の調子を見る。今なら笑っていいのか。もう少し聞いた方がいいのか。逆に、ここで引いた方がいいのか。
そういうことを考えながら話している。
別に苦痛なわけじゃない。
仕事だから。
それに、私はそういうことが得意な方だと思う。
相手に合わせる。相手が居心地悪くならないようにする。欲しい言葉が分かる時もある。
でも、ここでは違った。
「これ、面白そう」
隣から声がする。
本屋の棚を見ながら、直哉が一冊の本を手に取った。
「何の本?」
「料理」
「意外」
「そう?」
「もっと読まなそう」
「ひどいな」
直哉が笑う。
私も笑った。
それだけだった。
店にいる時なら、ここで何か一言足している。
相手が笑ったら、もう一度笑わせようとする。沈黙したら、話題を探す。相手が退屈していないか考える。
でも、今はしなかった。
沈黙しても、誰かが無理に埋めようとしない。
それが不思議だった。
店では、沈黙は少し怖い。
お客さんが退屈しているのかもしれないと思うから。
だから私は、何かを探す。
話題。質問。笑えること。
でも今は、沈黙していても別に何も起こらない。
歩いているだけなら、それでいい。
「……今日、静かだね」
直哉が言った。
「そう?」
「うん」
「眠いのかも」
「昨日遅かった?」
「ちょっとだけ」
「そっか」
それ以上、聞かれなかった。
私は横目で直哉を見る。
こういうところが楽だった。
私が何かを言わなかった時、それを無理に引き出そうとしない。
「直哉って、あんまり聞かないよね」
「何を?」
「いろいろ」
「聞いてほしい?」
「……分かんない」
「じゃあ、聞かない」
即答だった。
思わず笑う。
「極端」
「だって、分かんないって言ったじゃん」
「そうだけど」
また笑う。
こういう会話が好きだった。
意味のないことを話している。
何かを確認する必要もない。
相手の機嫌を取る必要もない。
自分をよく見せる必要もない。
私はふと、本屋のガラスに映った自分を見た。
いつもの仕事用の服じゃない。
髪も、店にいる時ほどきっちりしていない。
メイクも控えめ。
それなのに、不思議と落ち着いている。
「今日、楽しい?」
直哉が聞いた。
「うん」
今度は、迷わなかった。
「楽しい」
「ならよかった」
それだけ。
駅が近づいてくる。
時計を見る。
もうすぐ出勤時間だ。
「私、そろそろ行くね」
「うん」
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
「またね」
「うん。また連絡する」
私は手を振って、駅の階段へ向かった。
数段上がったところで、なんとなく振り返る。
直哉はまだそこにいた。
目が合う。
彼が小さく手を上げる。
私も手を振った。
それから、今度こそ階段を上がった。
電車に乗って、店へ向かう。
さっきまでの時間が、少しずつ遠くなる。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見る。
直哉からだった。
『今日はありがとう』
短いメッセージ。
私は少しだけ笑って、
『こちらこそ』
と返した。
それだけなのに、胸の奥が少し軽くなる。
その感覚を考える前に、電車が駅へ着いた。
店のドアを開けた瞬間。
いつもの空気に戻った。
「ナナ、おはよ」
「おはようございます」
笑う。
声の高さも、少し変わる。
鏡を見る。
髪を整える。
リップを直す。
いつもの自分。
そのはずだった。
「ナナちゃん」
声がして振り向く。
高槻さんだった。
「今日早いじゃん」
「高槻さんこそ」
「俺はいつも早いよ」
「嘘」
「なんで分かるの」
「なんとなく」
高槻さんが笑う。
「今日、なんか違う?」
「え?」
「いや。ちょっとだけ」
私は鏡を見る。
何も変わっていない。
「そうですか?」
「うん」
高槻さんは、それ以上言わなかった。
ただ、少しだけ私の顔を見ていた。
「まあ、いいけど」
ちょうどその時、スタッフがフロアの方から声をかける。
「ナナさん、真瀬様いらっしゃいました」
「……分かりました」
一瞬だけ、胸が動いた。
ほんの一瞬。
私はそれを隠すように笑った。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
高槻さんの声を背中で聞きながら、フロアへ向かう。
真瀬さんの席が見える。
いつも通り。
静かに座っている。
私に気づく。
視線が合う。
「こんばんは」
「こんばんは」
それだけ。
なのに。
さっきまで何でもないと思っていた心が、少しだけ落ち着かなくなった。
私は席につく。
「今日は早いね」
真瀬さんが言う。
「そうですか?」
「うん」
「たまたまです」
「そっか」
会話は続かない。
でも、不思議と気まずくない。
私はグラスを置く。
真瀬さんを見る。
昨日までなら、これが普通だった。
今も普通のはずなのに。
なぜか、さっきまで直哉と一緒に歩いていた時間と比べてしまう。
店の中の私は、何を話すか考えている。
笑うタイミングを考えている。
でも、真瀬さんの前では、それとは違うところがある。
言葉が少なくてもいい。
沈黙してもいい。
だから私は、少しだけ肩の力を抜いた。
「今日、何かあった?」
真瀬さんが聞く。
「え?」
「いつもより静か」
私は一瞬、答えられなかった。
さっき、高槻さんにも同じことを言われた。
今日の私は、そんなに違って見えるんだろうか。
「……ちょっと、外に出てました」
「休み?」
「はい」
「楽しかった?」
その質問に、私は笑った。
「……はい」
自然に出た。
それから気づく。
私は今日、
「楽しかった」
という言葉を何度も使っている。
でも。
直哉といた時間を思い出した時と、
真瀬さんの前でその言葉を口にした時。
同じ「楽しかった」なのに、
胸の中で少しだけ意味が違う気がした。
私はその違いを考えようとして、
やめた。
まだ、自分でも分からない。
分からないままでいい。
今は、まだ。
コメント
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直哉さんとの何でもない時間が柔らかくて、読んでいる間、息ができました。店では相手の表情を窺い、笑うタイミングを計るのに、隣では沈黙しても何も起こらない。その対比が沁みます。ガラスに映る仕事用じゃない自分、高槻さんの「今日、なんか違う?」という一言、そして真瀬さんの前で口にした「楽しかった」が、直哉さんといた時と同じ言葉なのに少し違う意味に感じられる機微。「分からないままでいい」という余韻に、静かに揺さぶられました。