テラーノベル
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店が忙しくなってくると、考えていたことが少しずつ薄れていく。
テーブルを移動する。
グラスを替える。
呼ばれた席へ行く。
笑う。
話す。
相手の話を聞く。
いつもの流れ。
身体は覚えている。
だから、頭の中で別のことを考えていても、仕事はできる。
それが私にとっては、少し便利だった。
「ナナちゃん、こっち」
高槻さんに呼ばれて、私はそちらへ向かった。
「今度はこっち?」
「そう。ちょっとだけ」
「ちょっとだけって言う人ほど長いんですよね」
「バレた?」
「バレます」
高槻さんが笑う。
私も笑った。
席につく。
さっきまで真瀬さんのところにいたことなんて、何もなかったみたいに話せる。
それが仕事だから。
「さっき、真瀬さんのところ行ってたよね」
高槻さんが何気なく言った。
「はい」
「なんか話した?」
「普通に」
「普通に、ね」
「何ですか?」
「いや」
高槻さんはグラスを眺めながら笑った。
「ナナちゃんって、真瀬さんの前だとちょっと変わるよね」
心臓が小さく跳ねた。
「またそれですか」
「またってことは、気にしてる?」
「してません」
「即答だ」
「本当にしてません」
高槻さんは、それ以上追及しなかった。
いつものように冗談で流すのかと思った。
けれど、少ししてから、
「まあ、俺も人のこと言えないけど」
と呟いた。
「え?」
「なんでもない」
「気になる言い方ですね」
「気にしなくていいよ」
そう言って笑う。
私はその笑顔を見て、少しだけ引っかかった。
高槻さんはいつも軽い。
何を言っても冗談にできる。
私が困った顔をすれば、すぐに別の話に変える。
だから私は、高槻さんの言葉を深く考えなくて済んでいた。
でも最近は。
その「軽さ」の中に、時々違うものが混ざっている気がする。
私が見ないようにしているだけなのかもしれない。
「ナナちゃん」
「はい」
「今日、楽しい?」
一瞬、昼間の直哉の言葉が重なった。
今日、楽しい?
私は少しだけ間を置いてから答えた。
「楽しいですよ」
「そっか」
高槻さんは笑った。
でも、その笑顔はいつもより静かだった。
その後、別の席へ呼ばれた。
そこには三崎さんがいた。
「こんばんは」
「こんばんは」
私は席につく。
三崎さんは、いつも通り落ち着いていた。
「今日は忙しそうですね」
「そうですね。週末だから」
「疲れています?」
「少しだけ」
「少しだけ、ですか」
「はい」
「さっき高槻さんにも同じことを聞かれました?」
私は思わず顔を上げた。
「……なんで分かるんですか?」
「顔」
「顔?」
「今、少しだけ驚いたので」
三崎さんは淡々と言った。
私は苦笑する。
「三崎さんって、本当に見てますよね」
「見てますよ」
否定しない。
その言い方が妙に三崎さんらしくて、私は笑った。
「怖いです」
「そうですか?」
「はい」
「じゃあ、あまり見ないようにします」
「それもそれで変な感じがします」
「難しいですね」
三崎さんが笑う。
その時、スタッフが近くを通った。
「三崎様、こちらお時間大丈夫ですか?」
「はい。もう少し大丈夫です」
そのやり取りを聞きながら、私はふと思った。
真瀬さんの前では、言葉が少なくても平気。
高槻さんの前では、冗談にして逃げられる。
三崎さんの前では、隠したつもりのものまで拾われる。
そして直哉といる時は――。
そもそも、隠そうと思わない。
その違いが、今日はやけに気になった。
「ナナさん」
三崎さんの声で我に返る。
「はい?」
「今、また考えてました?」
「……はい」
「珍しいですね」
「何がですか?」
「仕事中に、仕事と関係ないことを考えてる顔」
私は少し黙った。
「そんな顔してました?」
「してました」
「何を考えてたかは?」
「そこまでは分かりません」
少しだけ安心する。
全部見えているわけじゃない。
当たり前なのに、そう思っただけで肩の力が抜けた。
三崎さんはそれを見ていた。
「やっぱり、何かありますね」
「ありません」
「そうですか」
今度は三崎さんも、それ以上聞かなかった。
私はグラスを持ち上げる。
氷が小さく鳴った。
店の中には、いくつもの声がある。
笑い声。
スタッフの声。
グラスの音。
誰かの電話。
その全部の中に、私はいる。
なのに頭の片隅には、昼間の本屋が残っていた。
直哉が手に取った料理の本。
くだらない会話。
何も話さなくても平気だった時間。
そして、駅で別れた時のこと。
私はふとスマホを確認した。
新しい通知はない。
それを見て、少しだけ残念に思った。
その直後。
「……私、何やってるんだろ」
小さく呟いた。
「何か言いました?」
三崎さんが聞く。
「いえ」
私は笑った。
いつもの笑顔。
でも今度は、自分でも分かっていた。
この笑顔は、少しだけ誤魔化している。
コメント
1件
読み終わりました。今回もナナさんの内面の描写が繊細で、特に「人によって自分を出し分ける」感覚にすごく共感しました。真瀬さん、高槻さん、三崎さん、そして直哉——それぞれの前での自分の違いに気づいてしまう瞬間の描き方がリアルで。最後の「この笑顔は、少しだけ誤魔化している」という自己認識、とても印象的でした。続きが気になります!
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