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少しの間ではあるが、瑞月が俺の部屋で一緒に暮らすことになった。
そのきっかけとなる理由が理由だけに手放しでは喜べないが、それでも、手を伸ばせばすぐ届くところに瑞月がいるという幸福感に、油断すると顔が緩みそうになる。その幸福感は隠しても隠し切れないものらしく、ある日、先輩ドクターの指摘を受けてしまった。
それは、瑞月と暮らし始めて数日ほどが過ぎた、ある昼時だった。
食堂で昼食を取っているところに、先輩ドクターがやってきた。
「お疲れ様。隣、座っていい?」
「お疲れ様です。どうぞ」
先輩は早速椅子に腰を下ろし、テーブルにトレイを置いた。その上には、大盛りのチャーハンと卵スープ、水が乗っている。レンゲにチャーハンを乗せて口に入れ、満足そうに飲み込んでから、彼は俺を見てにやりと笑った。
「久保田先生さ、最近いいことあったでしょ」
「え?いいこと、ですか?」
とぼけて返しはしたが、確かに最近の俺はいいことづくめだ。そのすべては瑞月に関することである。
「もしかして、結婚でも決まった?ここ最近の先生、当直じゃない日は、仕事が終わると速攻で帰ってるじゃない?しかも、ふとした拍子ににやにや笑いを浮かべてたりしてさ。え?自分で気づいていなかった?そう言えば、ナースたちが噂してたの、ちらっと耳にしたよ。みんな、久保田先生の心をつかんだ女性に、ずいぶんと興味あったみたいだね。その人ってさ、やっぱり、前に電話してた彼女さん?ご飯食べさせてみたいな電話、かけてたことあったよね。今の先生、あの頃と比べると、なんていうの、幸せオーラってやつが眩しいくらいにだだ洩れだもんねぇ」
この先輩は、例の女性をけん制するために瑞月に電話をかけた時、俺と一緒にいた人だ。特に隠す必要はないが、詳しく話す必要もないと思い、俺は適当な言葉を返しておく。
「まぁ、そういうことですね」
「へぇ、よかったじゃない。でも、いつの間に彼女さんと出会ってたわけ?」
「ま、色々ありまして……」
「ふぅん。でもさ、例の人、ショックを受けていそうだね」
「そんなことはないと思いますけど」
「いやいやいや。あぁいう感じの、大人しくて真面目そうな人って、思い詰めると怖そうじゃない?念のため、気を付けた方がいいと思うよ。最近もまた、久保田先生のこと、周りに色々と訊いたりしていたらしいから」
「そうなんですか。分かりました。気を付けるようにします」
彼女の告白を断ったことや、そのことが原因で起こっているかもしれない例の事件のことは、言わないでおく。
「おっと、早く食べなきゃ。今日は午後も診察が立て込んでてさ」
先輩は慌ただしく食事を取り、忙しなくぱたぱたと食堂から出て行った。
彼の後ろ姿を見送ってから、俺は腕時計に目をやった。自分もそろそろ行こうかと思い、最後の一つとなっていた鳥の唐揚げを口の中に放り込んだ。もぐもぐと噛み砕き、ごくんと飲み込む。瑞月が作った唐揚げがやっぱり一番だと思いながら残っていたお茶を飲み干して、おもむろに椅子から立ち上がろうとした。
辺りの空気がすっと動いたのはその時だ。
誰かが背後を通ってでも行ったのだろうかと、何気なく辺りの様子をうかがって、はっと息を飲んだ。例の女性が昼食を乗せたトレイを持って、俺のすぐ近くに立っていたのだ。
油断してしまったと悔やんでいる俺に、彼女はおずおずと笑いかける。
「お疲れ様です。先生もお昼だったんですね。あの、お隣、よろしいですか?」
俺は彼女に対して疑念を持っている。そのため表情が強張る。
「お疲れ様です。私は今ちょうど食べ終わった所なので、お先に失礼します。どうぞごゆっくり」
言い終えてすぐ、今度こそ席を立つ。そのまま彼女に背を向けようとした。
ところが、彼女は俺にすかさず声をかけてよこす。
「先生、あの」
「はい、なんでしょう」
早く立ち去ればよかったものを、つい返事をしてしまった。
彼女はテーブルの上にトレイを置き、手にしていたトートバッグから何かを取り出した。はにかみ笑いを浮かべながら、俺の目の前に小さな紙袋をそっと差し出す。
「これ、どうぞ召し上がってください。クッキーを焼いたんです。先生に食べて頂きたくて」
俺が彼女の告白を断ったのは、つい最近のことだ。それなのに食べ物を、しかも手作りのものを差し出してくるなんてと、彼女の言動に呆れのような感情を抱く。そして、見覚えのあるその小花柄模様の紙袋を見て確信する。いつだったか、診察室のパソコンの脇にこっそりと置かれていた菓子はやはり、彼女からのものだったのだ。反応を見せず、適当に笑って流して、さっさと彼女から離れれば良かったものを、俺は訊ねてしまう。
「なぜです?」
彼女は恥ずかしそうに小声で答える。
「甘いものを食べれば疲れが取れると言いますから、それで。少しでも先生のお役に立ちたくて……」
「そのような気遣いは要りませんよ。私はこれで失礼しますね」
俺は固い作り笑いを顔に貼り付けて彼女に告げた。そしてこの時彼女と言葉を交わしてみて、直感的に確信する。
あの手紙を書いたのはやはり、彼女だ――。
まとわりつくような、じとっとした視線を背中に感じながら、俺はそそくさと食堂を後にした。
彼女が今回の件の犯人だとすれば、患者の住所を勝手に入手してそれを悪用したことは、個人情報の漏洩だ。彼女に辞めてもらう十分な理由になるだろう。けれど、本人が知らない、やっていないと言い張ればそれまでで、決定的な何かがない限り、今の状況だけでは動きようがない。しかしまた、今回の怪文書は確かに不快で気味が悪い事件ではあったけれど、瑞月に危険が及ぶような事態には至っていない。彼女か、または他の誰かか、これ以上俺たちに関わらずにいてくれるのなら、このまま流して忘れてしまったって構わないと、俺自身は思っている。
「できればそうあってほしいものだな」
俺はため息をつきながら、医局に続く廊下を足早に進んで行った。