テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
役員会は、その日のうちに長時間に及んだ。
資料の確認、証言の整理、過去の処分の再検討、現在進めていた類似商品の扱い。議題は山ほどあったが、結論に向かうたび、誰も軽くは決められなかった。
夕方を過ぎ、空が群青に近づくころ、ヴァルボンがようやく口を開いた。
「経営企画室長エドワインを、本件の責任者として一時的に職務から外す」
言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が固まる。
分かっていた結論でも、実際に告げられると重さが違った。
エドワインは席に座ったまま、まばたきひとつしなかった。
「異議はありません」
その声は静かだった。静かすぎて、痛々しいほどに。
ルチノは何か言いかけ、しかしやめる。
今ここで弟として手を差し出せば、かえって姉の立ってきた時間を軽くする気がしたのだろう。
ヴァルボンは椅子から立ち上がり、娘の前まで歩いた。
社長としてではなく、父として立とうとするぎこちなさが、その足取りに出ている。
「エドワイン」
呼ばれた娘は、初めて少しだけ顔を上げた。
「結果より先に守るものを、私はおまえに教えられなかった」
会議室が静まり返る。
謝罪というより、告白だった。
親としての失敗を、人前で認める声だった。
エドワインの喉がかすかに上下する。
「今、言うの」
「今しか、言えない」
「遅いわ」
「ああ」
ヴァルボンは否定しなかった。
「私は、おまえが何でもできると思ってしまった。弱音を吐かないことを、強さだと勘違いした」
「弱音を吐いたら、席がなくなると思ってた」
娘の返事に、ヴァルボンは目を閉じる。
クリストルンは胸が詰まった。
二十年前、モンジェが家族を守るために沈黙したように。
エドワインもまた、家を守るつもりで歪んでいったのだ。
親子愛は人を救う。けれど、向け方を間違えれば、人を縛る。
「裏切りの代償って、こういうことなんだね」
ペトロニオが珍しく笑わずにつぶやく。
誰を裏切ったのか。
現場を。家族を。自分自身を。
代償は、一人だけに返ってこない。
エドワインはゆっくり立ち上がった。
書類をまとめる手つきは最後まで美しかったが、出ていく背中は、これまで見たことがないほど小さく見えた。
扉が閉まる直前、ヴァルボンがもう一度だけ呼ぶ。
「エドワイン」
娘は振り返らない。
それでも、足だけは止まった。
「……すまなかった」
返事はなかった。
ただその沈黙が、二人の間に残された年月の長さを、そのまま示していた。
裏切りの代償は、役職を失うことだけでは終わらない。
家の中で交わされなかった言葉まで、きちんと引き受けなくてはならないのだと、そこにいる全員が知った。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!