「ねぇ、私に買われない?」
大きく見開いた瞳に映るのは、長い髪を風になびかせる私。
頭上には、黄色にも金色にも見える満月。
言葉には似つかわしくない、好戦的な目つきをしている。
年下の男を買おうというなら、大袈裟すぎる笑顔を振りまくべきなのだろう。
だが、笑える心境ではなかった。
ナンパだと軽く流されるならまだ良いが、変質者だと通報されてはたまらない。だから、そう見られないように、下手な作り笑いはしない。
ベンチで項垂れる彼もまた、正面に立つ私をほぼ無表情で見上げたまま。
夜の公園、しかも街灯と街灯の中間に位置する為、その表情はよくわからない。
ただ、私は彼が年齢よりも幼く見えて、ニッコリ笑えば大抵の女が目を輝かせそうな整った顔立ちをしていることを知っている。
癖のあるうねった茶色の髪。少しぽってりした唇。羨ましいほど長い睫毛。シミのない肌。
「あんた、誰?」
可愛い顔とはギャップを感じさせる低い声で、彼は言った。
「年上は、範疇外?」
私は彼よりひと回り年上だ。
彼はそれを知らないが、私が年上であることは確信しているだろう。
「俺、ハイヒールで踏んづけられて喜ぶ性癖、ないよ」
「奇遇ね。私も男を踏んづける性癖はないわ」
風が吹き、足元の落ち葉がカサカサと忙しない音をたてて流されていく。乾いた落ち葉は、数枚が私の足を掠めた。
彼が目を細め、風をやり過ごす。
乱れた髪の奥、左のこめかみに傷が見えた。
さほど古くはない、まだほんのり赤みのある傷。
風がやみ、傷が隠れる。
「年増のおばさんに食われちゃう前に、早く帰りなさい」
「はっ!?」
私は肩に掛けていたバッグの中の、分厚い封筒の中から一万円札を一枚引き抜き、彼の緩んだネクタイの結び目に挟んだ。
「なに、これ」
「タクシー代」
「なんで」
「落ちてたから」
そう言って、私は彼に背を向けた。
ベージュのトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、肩に掛けたバッグを脇に挟んで、歩き出す。
乾いた落ち葉を粉々に踏みつけながら、私は彼から遠ざかった。
風が吹く度に腰まであるストレートの髪とトレンチコートがなびき、足に落ち葉が当たる。
彼が泣いているように見えて、声をかけた。
が、泣いていなかった。
良かった。
ガサガサと、背後から騒々しく落ち葉を踏みつける音が聞こえた。
「金なんかいらねーよ!」
肩を掴まれ、強制的に身体が反転する。
彼が眉を吊り上げ、私を見下ろしていた。
私より二十センチは背が高い。
「なんなんだよ、あんた」
「お金は大事よ」
「はぁ?」
「どんなお金でも、お金はお金。大事にしなさい」
自分に言い聞かせるように、言った。
バッグの中の札束が、やけに重い。
「そのお金で、いつもより高いビールと、そうね、カツ丼か焼肉丼を買って帰って、食べて飲んで眠りなさい」
「意味がわかんねー」
「わからなくていいわ。とにかく、そうして、眠るの。何も考えずに、眠るの」
不意に、彼の表情が崩れた。
ゆっくりと瞬きをして瞼が開く。と同時に、大粒の雫が降って来た。私の足の下の落ち葉を濡らす。
ひと回り年下で、二十センチ背が高くて、ボロボロと涙をこぼす彼の頭上に、漆黒の空。そこに浮かぶ完全な月。
「月が、綺麗ね」
私は月を見上げながら、言った。
彼も、月を見上げる。
「それ、男の台詞じゃねーの」
グズッと小さく鼻をすすりながら、彼が言った。
「若いのに、そんなこと知ってるの?」
思わず、ふふっと笑う。
「あんたもカツ丼、食うの」
「え?」
彼が、私が渡した一万円を顔の前に差し出す。
「カツ丼は、ちょっとね」
「じゃあ、何食うの」
「どうして?」
「独りでカツ丼とか、寂し過ぎだろ」
「そお……ね」
ふっと、彼の左手に視線を移す。
薬指には、指輪。
独り……か。
私の指には、もう指輪はない。
「ああ、これ」
私の視線に気づいた彼が、右手で指輪に触れた。
「気になる?」
「気にして欲しいの?」
「いや」と言って、彼が約束の輪を薬指から抜いた。
「思いっきり放り投げたら格好つくのかもしんねーけど――」
彼は痛々しい笑顔で、指輪をジャケットのポケットに入れた。
「――今は格好つけてる場合じゃないかな」
「未練……ではないの?」
「それは、ない。無一文になっちまったから、売って少しでも金にしねーと」
「そう……」
「どんな金でも、大事だからな」
私の言葉を、さも自分の言葉のように言った。得意気に。
「そうよ。大事にしなさい」
「あんたはしてんの?」
「え?」
「金。大事にしてんなら、得体の知れない子供《ガキ》にやんなよ」
面白い子だな、と思った。
怒ったり、泣いたり、笑ったり。
感情に素直で、だけど馬鹿じゃない。
「慈善活動も、有効なお金の使い方だわ」
素直な彼は、素直にムッとした表情をした。
「施しかよ」
「そうよ」
「そうやって、寂しそうな男を見つけては金を渡してんの」
「寂しいの?」
「寂しくねーよ!」
「初めてよ」
「は?」
「慈善活動」
こんな会話のキャッチボール、仕事以外ではいつ振りだろう。
感情のこもった表情と言葉を投げられるのは、いつ振りだろう。
「施しが必要なのは、あんたじゃねーの」
「……?」
彼が急に真顔で言う。
言葉の意味がわからず、返事に困った。
「あんたの方が、よっぽど寂しそうだ」
初めて言われた。
『お前は一人でも生きていけるだろう? いや、一人の方が自由でいいだろう?』
思い出したくない男の、思い出したくない言葉を、思い出してしまった。
「寂しくなんて、ないわ」
ポケットの中の手を、握り締める。
強く。
「寂しい奴ほど、そう言うんだよ」
「わかったようなこと――っ!」
私には珍しく、カッとなった。
私が声をかけるまで、夜の公園のベンチで背中を丸めて項垂れていた男に、知った風に言われて腹が立った。
何も知らないくせに――っ!!
そうだ。
目の前の彼は、何も知らない。
私が誰なのかも、自分が誰なのかも。
私は言いかけた言葉を飲み込み、ポケットの中の手を開いた。
余程強く握っていたらしく、ほんの少し掌に痛みを感じた。
ふうっと小さく息を吐く。
「タダほど怖い物はない、って死んだばーちゃんが言ってた」
「は?」
また唐突に話が変わり、私は間の抜けた声を発してしまった。
突風で落ち葉が舞い、私は目を閉じ、風に背を向け、髪を押さえた。
何となく伸ばし続けているこの髪が、やけに忌々しく思える。
明日にでもバッサリ切ってやろうか。
そんなことを思った時、急に風がやんだ。
のではなく、彼に抱き締められた。
パコンッと軽い音がして、足元に何かが落ちた。
目を開けると、空のペットボトルが私の足元から風に乗って転がっていく。
風がやみ、落ち葉が静止する。
それでも、私は彼の腕の中にいた。
三秒、五秒、十秒。
久し振りの温もりに浸りかけて、我に返った。
顔を上げ、彼の胸を押し離す。が、彼は私の腕を離さない。
「ありがとう」
「え?」と、彼は聞き返す。
私の声が聞こえなかったのか、なぜ礼を言われたのかがわからなかったのかは、わからない。
「ペットボトル、当たったでしょ」
「ああ」
「大丈夫?」
「空だったみたいだし、大丈夫」
「そう。ありがとう」
身体を捩り、離して欲しいとアピールするが、彼の手は私の肘を掴んだまま。
「あの――」
「――飯、奢ってよ」
「え?」
年が一回りも違うと、こうも会話のテンポも違うものだろうか。
私には、彼の言葉の真意を測りかねた。
「この金で飯、食わして」
そうするように、先ほど言ったはずだ。
「さっき、そう言って――」
「――ちゃんとお礼はするから」
「え?」
「俺を買ってよ」
大きく円を描いて、話が戻った。
自分が言ったことなのに、言われると妙に恥ずかしい。
きっと、彼も同じ。
ぎこちない笑顔が、そう思わせた。
彼が笑ってくれるのなら、私の羞恥心など些末な問題だ。
「肩でも揉んでもらおうかしら」
私がそう言うと、彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。
そんな彼を見ていたら、泣きたくなった。
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