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彼と再会した二十分後。
私は再びEmpire HOTELにいた。
ホテル内のショップの奥に並ぶ下着の前。
有無を言わさずタクシーに乗せられ、ホテルに連れてこられた私は、やっぱり有無を言わさず宿泊に必要なものを揃えるようにと言われた。
必要ないと言ったのだが、全く聞き入れてもらえず、それどころか、私が選ばないのなら、布地の少ない真っ赤な下着を買うと脅され、こうして渋々ながらも選んでいるのだ。
彼は少し離れた場所で、私を見ている。
仕方なく、私は一番安い、黒のシームレスブラとショーツのセットとストッキングを買った。
部屋は、前回と同じデラックスダブル。
あの夜は窓の向こうに見えた満月が、今夜は見えない。
「会いたかった――」
入るなり、彼の絞り出すような声と共に背後から抱き締められた。
首筋をくすぐる彼の吐息に、鼓動が大きく、速くなる。
「仕事は順調?」
黙っていたらうるさい鼓動が彼に聞こえてしまう気がして、聞いた。
「うん。契約取れたよ」
「そう。おめでとう」
「……うん」
私の肩に額を押し付けるように顔を埋め、彼が小さく言った。
「美しい月、が良かった?」
「え?」
「名前。メモに書いてあった」
「ああ。あれは……、一般的にはその方が喜ばれるってことで――」
「――他の女に名前をつけたりしない」
「そう……ね」
見知らぬ誰かに名前を付けること自体が有り得ない。次、なんてない方がいいに決まっている。
「満月……」
耳朶が咥えられ、舐められ、思わず身体が硬直する。
「今日、来てくれるかって、そればっか考えてた」
「どうして、そんな――」
「――理由なんかわかんねーけど、そんなのどうでもいいくらい、満月のことばっか考えてた」
お腹の前でクロスされていた彼の片手がゆっくりと移動し、左胸を持ち上げるように包んだ。
「満月も俺のこと少しは考えてくれた?」
少しなんてもんじゃない。
毎日、毎日毎日考えてた。
彼からのメモを目につく場所に置いたせいかもしれない。
けれど、それを認めるには、私は年を取り過ぎていて。
『どうしてそう、可愛げがないんだ』
また、だ。
忘れたい言葉を思い出し、私は唇を噛んだ。
どうせ、私には可愛げなんて――。
「もう、お金ないわよ」
「は?」
「もう、あなたを買えるお金はないわよ」
最高に可愛げのない台詞。
私が男でも、こんな女はごめんだ。
だけど、私をこんな女にしたのは、間違いなくあの男だ。
『きみが甘えられるような男になるから』なんてプロポーズしたくせに。
私だって、本当は素直になりたいわよ!
「満月も名前、つけて」
「え?」
全く別のところに意識が飛んでいたから、本当に彼の言葉を聞き逃した。
「俺に、名前つけて」
「なんで――」
「――名刺交換、する?」
彼は私に名前を付けた。
そして、まるで、その名前が本当の名前かのように呼ぶ。
だが、そもそも、名前を呼び合うような関係ではない。
「俺の名前は――」
ギクッとして、私は素早く振り返り、両手で彼の口を覆った。
名乗られては、困る。
彼の名を聞いてしまったら、私はもう、知らない振りは出来ない。
「みちや」と、私は言った。
「満月の夜と書いて、|満夜《みちや》」
彼を真似ただけ。
けれど、意外にも彼は気に入ったようで、私の手の中の口元を緩ませた。
彼――満夜は私の手を掴んで口から離すと、遮るものがなくなったその唇を、私の唇に重ねた。
最初は軽く。
次第に、深く、長く。
いつしか、静かな部屋には、舌と舌が絡まる、淫靡な水音が響いていた。
神経が麻痺していく。
何もかも、どうでも良くなってしまう。
彼が私のブラウスのボタンを外し、私は彼のネクタイを解く。
今夜だけ。
今夜だけだ。
満月と満夜として、今夜だけ抱き合いたい。
何年後かに、あんな年上の女と寝たなんてと、彼は後悔するかもしれない。気の迷いだった、と。
何年もしなくても、私の素性を知って激しく後悔するかもしれない。騙された、と。
それでも、いい。
|現在《いま》、この瞬間の彼が私を求めてくれるのなら、彼が私に求められたいと思うのであれば。
私たちは互いの名前を呼び、嬌声を上げ、揺さぶり合い、果てた。
私の身体が彼の体温を、感触を、形を覚えた頃、息も絶え絶えにベッドに倒れ込み、目を閉じた。
いつの間にか雲は切れ、満月が私たちを見ていた。
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