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私は寂しくなった首元に手を当て、少し考えた。
私が社会人になって二度目のボーナスで買ったものだった。一度目のボーナスは、両親へのプレゼントを買うのに使った。
今の私にとっては惜しいと思うほどの値段ではないが、買った時の私は大人になった実感と、仕事への意欲に満ち溢れていた。
離婚するまではしまってあったのだが、あの頃の仕事への熱意とか、自立心を思い出すべくつけていた。
だが、やはり、このまま彼と一緒にいるべきではない。
そう思って脱いだパンプスを履こうとした時、ドアベルが鳴った。
彼が、ルームサービスを頼んだと言っていた。
私はドアを開け、トレイを受け取った。
トレイの上には缶ビールが二本と、茶色の小さな紙袋。
缶ビールなら、冷蔵庫に入っているはずだ。
そう思いながら、運ばれてきたビールがぬるくならないようにと冷蔵庫を開けた。
やはり、缶ビールは入っている。
私は紙袋の中を覗いた。
コンドームが三個、入っていた。
缶ビールは、|コンドーム《これ》を運ぶ口実だったよう。
ホントにスル気なんだ……。
そう思ったら、急に帰る気が失せた。
シャワーから出て、コンドームの袋だけが残されていたら、きっと、彼は惨めになる。
自棄になっているだけにしても。
ここまでついて来ておいて、黙って消えるのは、ただでさえプライドが傷ついている彼に追い打ちをかけることになる。
これ以上、傷ついて欲しくない……。
シャワーから出た彼は、私の姿を見ると少し目を見開いた。
いなくなっていると、思っていたのかもしれない。
バスローブ姿で、彼はソファに腰を下ろした。
冷蔵庫から出した缶ビールを手渡すと、彼は礼を言ってプルタブを押し上げた。
一気に飲み干す勢いで缶を傾ける。
私は缶を開けないまま、テーブルの上に置いた。
「満月って、バリバリのキャリアウーマンって感じだよね」と、彼が言った。
「そう?」
「うん」
「奥さんとは違う?」と聞いたのは、好奇心から。
彼は潰れない程度の力を込めて缶を握った。
「……|里奈《りな》は、なんつーか、ふわふわした感じ? 天然で、時々わけわかんないことを言うけど、いつも一生懸命で可愛かった……はず」
「はず?」
「うん。はず。昨日の夜のあいつは、俺の知ってるあいつとは全然違ってたから」
「そうなんだ」
「うん……」
「……そう」
聞いておいて無責任だが、それ以上、何を言っていいかわからなかった。
彼が残りのビールを飲み干す。
私は自分の分を差し出した。
「俺さ、ソフトウェアの開発をしてるんだけど、いつか独立したくて仕事とは別に開発してたんだ。で、そのソフトが完成したから、出張から帰ったら会社を辞めることになってて――」
彼が言葉を切り、ふぅっと息を吐いた。
「――それが嫌だったんだろうな」
「ちゃんと話し合ったの?」
「ああ。独立を目指してることは結婚前から話していたし、何社かには打診して、プレゼンのチャンスももらってる。すぐに契約にこぎつけられなくても、当面はフリーで仕事を貰えるように根回しも出来てる。いきなり、収入がなくなるようなことにはならないって話してあった」
「その時、反対されなかったの?」
「ああ。少し不安そうではあったけど、里奈も仕事をしてるし、協力するって言ってくれてたんだ」
「そう……」
「けど、独立のために貯めてた金も持っていかれちまって――」
「――いくら貯めてたの?」
「三百万」
「それを全部持っていかれたの」
彼は頷いた。
肩を落として俯く彼は、公園にいた時と同じく泣きそうに見えて、胸が締め付けられた。
「じゃあ、私が今夜のあなたを三百万で買ってあげるわ」
顔を上げた彼は、目を丸くして私を見た。
「え――?」
「あなたを捨てた女、見返してやりなさい」
これ以上、悲しまないで欲しい。
これ以上、苦しまないで欲しい。
その為なら、何でもするから――。
心から、そう思った。
それに、私にとっても都合が良かった。
人肌で安眠できるか、を検証するチャンスだったから。
最近、あまり眠れていなかった。
結婚していた時は敢えて一人で眠っていたのに、独りになった途端に眠れなくなった。
彼は三百万の見返りにセックスを強要されると思っていたらしく、添い寝して欲しいと言うと素っ頓狂な甲高い声で聞き返した。
ベッドに入っても彼は半信半疑で、むしろ誘うように私のお尻を撫でたり、胸に顔を押し付けたりしたが、私は取り合わなかった。
「なぁ」
首筋に彼の息がかかる。
「なに?」
「一流のホテルが用意するゴムって、どんなんか興味ない?」
「ないわ」
太腿に当たる硬いものに気づかないふりをして、きっぱりと言った。
「けど、折角――」
「――もっと若くて可愛い子と使いなさい」
「俺は今、満月と使いたいんだけど」
「それじゃ、別れた奥さんは悔しがらないじゃない」
「誰と寝たって、あいつに報告なんかしないし」
「風の噂って、馬鹿に出来ないものよ」
私は彼のうねうねと揺れる髪を撫でて目を閉じた。
「知りたくないことほど、聞こえてくるんだから……」
私に必要なのは、若い男とのセックスで得られる快感と、罪悪感や自己嫌悪ではなく、安眠だった。彼にも、そう。
眠れそうだった。
が、眠らなかった。
胸元にかかる息が静かに、規則正しく繰り返され、私は彼が眠れたことに安心した。
きっと、昨夜は眠れなかっただろう。
一時間ほどして、私はベッドを出た。
静かに。
彼は起きなかった。
私はバッグから分厚い茶封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。ホテルのメモパッドにメッセージを残す。
一流ホテルのメモパッドは、少し乱暴に用紙を破った形跡があり、清掃員が見逃すなんて珍しいこともあるのだなと思った。
『次に女性に名前を付ける時は、美月にしなさい。
あなたの成功を願っているわ。 満月』
私は彼の無防備で可愛い寝顔を覗き込み、唇を重ねた。一瞬だけ。
軽くなったバッグを小脇に抱え、私は独り、ホテルを後にした。