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その夜、私は最後の病棟回診を終え、雪の降り積もる街を抜けて帰宅した。
遅い夕食と入浴を済ませる頃には、寝室の目覚まし時計はもうすぐ零時を指そうとしていた。
乾かした髪を櫛で梳かしながら、枕元に置いた携帯電話へふと視線を向ける。
『……甘えてるんだ』
病院で別れ際に直江先生から向けられた言葉が、不意に頭をよぎった。
「……」
小さく息を吐き、その思考を追い払うように、私はふかふかの羽毛布団へ身体を沈める。
寝転んだまま携帯電話へ手を伸ばした。
遼が当直で泊まると聞き、すぐに今泉さんへ送ったメール。
『今夜、主人は仕事で帰らない』
遼が泊まりの日だけに許される、今泉さんとの夜更けのメール。
その時間を楽しみに、私は画面を開いた。
すると、入浴している間に一通のメールが届いていた。
『やっと仕事が片付いたよ。今、駅に向かって歩いてる途中。亜紀は何してる?』
待ちに待った今泉さんからのメールだった。
しかし、着信からすでに十五分が過ぎている。
しまった……
お風呂、もう少し待てばよかった。
『お風呂に入ってた。まだ電車の中? あと何分メールできる?』
慌てて返信する。
『あと十分くらいかな。
終電はすごく混んでるよ。
明日の朝は、いつもより二本は早い電車に乗るつもりで家を出た方がいいぞ』
タイムリミットまで、あと十分!?
早く返信しないと、あまり話せない。
『うん、分かった。
明日は雪が積もったら営業に出る時間が変わる?
メールは何時くらいにできる?』
できるだけ簡潔に打ち込み、送信した。
……五分経過。
着信音は鳴っていない。
それでも私は何度も携帯電話の画面へ視線を落とした。
『ごめん。同僚から仕事のメールが入った。
明日は午前中に会議があるから、それが終わったらメールする。
今日も一日お疲れさま。おやすみ、亜紀。
戸締まりを忘れないように。』
「えっ!? これで終わり?」
あまりにもあっさり終わってしまったメール。
期待していた文字数との落差に、私は思わず目を丸くした。
「相変わらず忙しいのね……。
はい、分かってます。
分かってますとも」
拗ねた子どものように頬を膨らませ、誰に聞かせるでもなくため息混じりに呟く。
身体を起こしてベッドを降り、カーテンを少しだけ開けた。
窓の向こうには、街路樹も住宅もビルも車も、静かに雪を纏った白い景色が広がっている。
この時間でも車通りの多い大通りだけが、雪の下から黒いアスファルトをわずかに覗かせていた。
「戸締まりを忘れないように……か。遼と同じこと言わないでよ」
窓ガラスの水蒸気を指先でなぞりながら、苦笑いを漏らす。
一人で過ごす静かな夜。
天井から温かな風を送り出すエアコンの音だけが、部屋に静かに響いていた。
以前は、一人で過ごす夜が嫌いだった。
なのに今は、今泉さんと夜のメールができる喜びで、夫のいない淋しささえ忘れてしまった。
私の中で、【夫】としての遼の存在は変わらない。
けれど、【男】としての遼の存在は、日に日に薄れていく。
だからと言って、遼と別れることを望むわけでもない。
ただ、今泉さんの存在を心の支えにして毎日を過ごしている。
遼とのすれ違いから目を背け、平穏を装うのは、この結婚生活を守るため?
それとも、今泉さんとの幸せな時間を守るため?
「……」
テラスに積もった雪へ視線を落とし、小さく息を吐いた。
遼と今泉さん……
どちらかを失った私は、どうなる?
もし遼を失えば、今あるこの環境に身を置くことはできない。
そして、私が独り身になったからといって、今泉さんが私のものになることもあり得ない。
彼には彼の家庭がある……。
私が独り身になることで、彼にとって家庭を脅かす『危険な存在』にはなりたくない。
もし今泉さんを失えば、目に映る日常は何一つ変わらなくても、想像もできないほどの悲しみが私の心を壊してしまうだろう。
今、この非倫理的な関係を手放すことは、私にはできない。
この幸福感に満たされた刺激は、まるで麻薬のよう……。
「随分と狡い女になれたでしょ?
今泉さん……」
曇った窓ガラスへ手のひらをぺたりと当て、まるで自分の姿を掻き消すように左右へ滑らせる。
濡れた手をガラスから離すと、そこだけが外の景色を鮮明に映し出した。
その透明な跡を、水滴がゆっくりと伝い落ちていく。
小さな雫は、流れ落ちるにつれて少しずつ大きな粒へと変わっていく。
表情を失ったまま、その水滴を見つめていると――
鏡台の上に置いた子機が、不意に鳴り響いた。
こんな時間に……誰?
私は窓辺を離れ、鏡台へ歩み寄る。
そして、子機の液晶に表示された番号をじっと見つめた。
コメント
1件
うわああ…このエピソード、めっちゃ胸にグッときた😭💔 亜紀の「麻薬みたい」って例え方がすごくリアルで、倫理とか幸せの間で揺れる気持ちが痛いほど伝わってくる…! 窓ガラスに手を当てて自分を消す動作、あの描写エモすぎるよ…。 静かな夜の音と雪の景色が、彼女の孤独と秘密を美しく包んでて、切なくて何度も読み返したくなった…🌸💕