テラーノベル
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#成り上がり
#死に戻り
#ハッピーエンド
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満月の鐘まつり当日、雨は前の周回ほどひどくなかった。
昼のうちは雲が厚く広がっただけで、風もおとなしい。橋の補修は間に合い、照明も固定され、導線の札も増えている。ホレの時間表どおりに人が動き、トゥランの声はよく通り、アルヴェも前より一人で抱え込まない。
観客が集まり始めた時、サベリオはほんの少しだけ、この夜は越えられるかもしれないと思った。
橋の上の灯りが一つずつ点く。ジャスパートの明かりは派手すぎず、ちゃんと人の顔を照らしていた。ヌバーの叫び企画には笑いが起き、モルリの屋台からは温かい湯気がのぼる。しずくシェルターの入口では、ハルティナが来場者の手を引いて中と外をなめらかにつないでいた。
見えるところだけなら、ほとんど成功だった。
けれどサベリオは、その夜の空気に薄い膜のようなものが張っているのを感じていた。
デシアの表情だ。
彼女は音語りを進め、町の音を丁寧に重ねていく。春のしずく、橋を渡る足音、若者たちの笑い声。どれも美しい。観客の息もちゃんとつかめている。なのにその横顔には、最後まで晴れない迷いが残っていた。
事前確認書は、結局まだ送られていない。
サベリオは舞台の脇でその事実を何度も思い出した。問いつめたところで今さらどうにもならない。責めたいわけでもない。けれど、この夜の先にあるはずの未来が、まだ誰かの我慢の上に乗っている気がしてならなかった。
音語りが終盤へ入るころ、細い雨が降り始めた。
観客は慌てない。前よりずっと落ち着いている。橋の上にいた人たちは、トゥランの誘導で順にシェルター側へ移り始めた。事故になるほどの混乱はない。橋も持ちこたえている。何もかも、以前よりうまくいっている。
なのに、サベリオの胸だけが重く沈んでいく。
「どうしたの」
休憩の合間、デシアが小声で聞いた。
「顔が、また遠い」
サベリオは言葉を探したが、見つからなかった。
「たぶん……まだ、足りてない」
「何が?」
「誰かが自分のぶんを諦めたまま、形だけ整ってる」
デシアのまぶたが揺れる。その反応だけで十分だった。
雨はすぐやみ、祭りはそのまま終盤へなだれ込んだ。拍手も起きた。笑顔もある。客の反応だけなら、今まででいちばんよかったかもしれない。
それでも零時が近づくほど、サベリオの身体は息苦しくなっていった。深い時計が遠くで耳を澄ましているような、嫌な感覚。
終演後、サベリオは一人で橋へ戻った。
濡れた橋板に月明かりがにじんでいる。人の気配が消えたあとの橋は、祭りの熱が嘘みたいに静かだった。欄干に手を置くと、指先が冷たい。
「これでも、まだだめなのか」
誰にともなくつぶやく。
観客は笑った。事故も起きなかった。仲間の多くも前よりうまくつながった。それなのに夜が重いままなのは、たぶん一つしかない。デシアが自分の未来を後回しにしたまま、この町のためだけに立っていたこと。誰か一人の犠牲を前提にした成功は、やはり成功ではないのだ。
背後で足音がした。振り向くと、デシアが立っていた。
「やっぱりここにいた」
サベリオは苦く笑う。
「見つけるの、うまいね」
「何回も見送ってる気がするから」
その言葉に、胸が詰まる。
デシアは一歩近づいた。
「私、出せなかった」
「うん」
「みんなが大変なのに、自分だけ先へ行く準備をしてるみたいで」
「うん」
「でも、だからって出さないのも違うって、本当は分かってた」
雨上がりの木は滑りやすい。足元のきしみが、いつもより近く聞こえる。
サベリオは答えようとして、ほんの一瞬だけ視線を落とした。その一瞬で、靴裏が濡れた板を逃した。
身体が傾く。
まずい、と理解した時には遅かった。欄干へ手を伸ばすが、指先がかすめるだけで届かない。世界がひっくり返り、橋の灯りが細く流れる。
「サベリオ!」
デシアの叫びが夜を裂いた。
落ちながら、サベリオは奇妙に静かだった。やはり物理の事故だけでは終わらない。心を置き去りにしたままでは、夜は別の裂け目を見つけてこちらを引き戻す。
零時十三分。
どこかで鐘が鳴る。
川へ落ちる衝撃より先に、胸の奥で深い時計が低くうなった。冷たい闇がせり上がり、視界は満月の白に飲まれていく。
まだ夜は朝を選ばない。
そう悟った瞬間、サベリオは五度目の終わりに引きずり込まれた。