翌朝ホテルをチェックアウトした瑠璃子は、不動産屋の開店時刻に合わせて店へ行き新居の鍵を受け取った。
そこから新居まではタクシーで移動する。
マンションの前でタクシーを降りた瑠璃子は建物を見上げる。
(今日からここが私の家ね……)
瑠璃子は一度深呼吸をするとマンションの中へ入りエレベーターで部屋へ向かった。
3階でエレベーターを降りると真っ直ぐに廊下を進む。
鍵を開けて部屋の中へ入ると、リビングには太陽の光が燦々と降り注いでいた。
眩しいくらいのその光はまるで瑠璃子を歓迎してくれているようだった。
早速用意していた雑巾で部屋の中を軽く水拭きする。
今日はこの後家具と家電が届く予定なのですぐに設置出来るようにしておきたい。
約束通り午前中に家具と家電が届いた。
家具を希望の位置に運んでもらい家電類は設置をお願いする。
それらの作業が全て終わったのはちょうど正午を過ぎた頃だった。
配送業者が帰った後、瑠璃子はコンビニで買っておいたパンとコーヒーで軽く昼食を済ませた。
午後2時には引越し業者に預かってもらっていた荷物が全て届いた。
運び込まれた段ボールはリビングの端に綺麗に積まれている。あとはこれを片付けていくだけだ。
瑠璃子は少しでも段ボールを減らそうと片付けに集中する。
途中二度ほど休憩を挟みながら片付けを続ける。すると段ボールはあと数個を残すだけとなった。
時計を見ると時刻は夜の8時になっていた。
お腹が空いた瑠璃子は東京から持って来た蕎麦の乾麺を取り出しキッチンで茹でる。
今夜は引越し蕎麦が夕食だ。
蕎麦が茹で上がるまでの間部屋をざっと見渡すとだいぶ人が住める状態になっている。
そして何よりも目を引くのは新しい家具類だ。全て真新しくて気持ちがいい。
蕎麦が茹で上がると瑠璃子は真新しいダイニングテーブルで食べ始めた。食べながら部屋のインテリアについてあれこれ考える。
瑠璃子の視線の先にはリビングボードの上に飾られた陶器の猫が二つあった。
北欧の女性作家が作った猫の置物はとても味わいのある表情をしている。
(北欧風インテリアにするのもいいわね)
これから長い冬を過ごすこの部屋を瑠璃子は温かな寛げる雰囲気にしたいと思った。
引越しを終えた今、次にやるべき事は3日後に車を取りに行く事だった。
いざ車を買ったはいいが果たしてちゃんと乗れるのだろうか?
中沢と交際していた4年間瑠璃子は常に助手席専門だった。中沢とは遠出はほとんどしかしなかったので車に乗ってもいつも短時間だった。
中沢と付き合う前の20代前半、瑠璃子はよく一人旅に行っていた。旅先ではレンタカーを借りて自ら運転をしていた。
だから璃子が最後にハンドルを握ったのはおそらく24歳の時だったと思う。
車が手元に来たらすぐに運転の練習をするつもりだ。買い物がてらあちこち出掛けてみて少しでも早く運転に慣れようと思っている。
「頑張らなくちゃ!」
瑠璃子はそう呟くと残りの蕎麦を食べ続けた。
その頃大輔は8時間の大手術を終えて手術室から出て来たところだった。高齢男性の大動脈瘤の手術で予定時刻をかなりオーバーしていた。時間は少しかかったが完璧に処置できたと思っている。
あとは経過観察をしっかりすれば大丈夫だろう。
医局へ戻った大輔は窓際でコーヒーを淹れてから自分の席へ戻る。そして温かいコーヒーを一口飲み漸くホッと息をついた。
そこへ医師の佐川洋一(さがわよういち)が来て大輔に声をかけた。
「手術お疲れ! 予定よりだいぶ長引いたみたいだな」
佐川は大輔の医学部の同期で今はこの大学病院で内科の医師をしている。
「ああ、ちょっと手間取ったけれど無事に終わったよ」
「さすが『神の手』を持つ大輔先生だな」
佐川は冷やかすように言った。
「何か用か?」
「いやさ、お前の噂話の真相を聞きに来たんだよ」
「噂話?」
「ほら、ホテルの前で女と一緒にいたってやつ。あの噂、内科まで流れて来たぞ」
佐川はニヤニヤしている。
「あれか。あれはそんなんじゃないよ」
「そんなんじゃないって、じゃあ一体なんなんだよ?」
そう聞かれた大輔は、東京出張から戻る飛行機の中で起きた事を全て佐川に話した。もちろん瑠璃子をホテルまで送った事もだ。
「あれ? じゃあ来月から内科に来る新しい看護師ってその人の事かな?」
「内科に?」
「うん、東京からわざわざ岩見沢に来るっていうんで結構噂になってるよ。美人だったか?」
「お前そんな事聞いてどうすんだ?」
ムキになった大輔を見て佐川はピンとくる。
「その様子ならかなりの美人だったんだな」
佐川は嬉しそうに言った。
「来月が楽しみだなー、じゃあまたな」
そう言い残すと佐川は医局を後にした。
「あいつは一体何しにきたんだ?」
大輔は半ば呆れ顔で残りのコーヒーを飲み干す。
(内科に配属されるのか……)
その日仕事を終えた大輔は帰りに行きつけのスーパーへ寄る。
店に入るといつも買う鶏むね肉や果物、野菜やコーヒー豆を手際よくカゴへ入れていき会計を済ませる。
そしてすぐに車へ戻ると自宅へ向かった。
大輔の家は岩見沢市の郊外にある。大輔は2年前に郊外に土地を買い家を建てて住んでいた。
家の建築は札幌で一級建築士事務所を開いている高校時代の友人に頼んだ。
大輔が郊外を選んだのには訳がある。
外科医という仕事柄、大輔はいつも重い責任感と張りつめた空気の中で仕事をしていた。
せめてプライベートではリラックスしたいと思い大輔はあえて自然が多い郊外に土地を買う。
郊外と言っても病院からは4~5キロの距離なので患者が急変してもすぐに駆け付けられる距離だ。
真っ直ぐな道をしばらく進むと白樺の木々の間に大輔の家が見えてきた。
ダークブラウンの木材で覆われたシンプルな片流れ屋根の家は、まるで別荘のようにモダンな雰囲気だ。
玄関周りにある柔らかいオレンジの灯りが家主を優しく迎え入れてくれる。
大輔は車を駐車場に停めると買い物袋を抱えて家の中へ入って行った。
コメント
12件
なかないで、ひとりでぇ(安全地帯『悲しみにさようなら』より)あっ。確か、玉置浩二も北海道出身やったな。
外科医はハードなんだろうな。 きちんと自炊しちゃう大輔さん好感持てる。 瑠璃ちゃんは車でこれから沢山お出かけして楽しんで欲しいな☺
新しい生活へ、この場面はとても好きです。 瑠璃子の心の傷を思うと頑張って欲しいと思ってしまう。 更新楽しみです。