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#デートDV
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#恋愛
その日の仕事帰り、私は自分の部屋へと向かっていた。普段は着用していないのだが、明日の仕事でジャケットが必要になり、急遽それを取りに行かねばならなくなったのだ。そのことは会社を出る前に諒には連絡済みだったが、珍しく早々に彼から返信があった。
『俺が帰ってから一緒に行こう』
それを見て思ったのは、たかだかこれくらいのことで、忙しい彼の時間を取らせるわけにはいかない、ということだ。彼の部屋と私の部屋はそんなにも離れてはいないし、あれから怪文書も入っておらず、私の回りで怪しい出来事も起きてはいない。用を済ませたら、急いで、そして注意深く辺りに気を配りながら帰れば大丈夫だろうと考えた。
『十分に気を付けるから、一人でも大丈夫だよ。用が済んだら急いで戻ります』
彼に返信した後スマホをバッグに仕舞い込み、私は足早に自分のマンションへと向かった。
何日かぶりに自分の部屋に入った私は、早速寝室に行く。クローゼットを開けてジャケットを取り出し、適当に見繕った紙袋にそれを入れた。さて戻ろうかと寝室を出たところに、諒から電話が入った。
『今、どこ?』
「自分の部屋にいるよ。もう戻ろうと思ってたとこ」
『まったく……。一緒に行くって、メッセージ送ったのに』
諒は苦々しい声で言った。
「だって、わざわざ悪いと思って……」
『こういう時だし、そうじゃなくたって、俺に変な気兼ねはするなって、何度言ったら分かるのかな……。まぁ、いいや。仕事が終わったから、迎えに行く。そのまま部屋で待ってて』
「分かった。待ってる」
私は素直に答えて電話を切った。彼が来るまでの間に少しだけ部屋を片づけておこうと思いつき、紙袋をリビングのソファの上に置いて、辺りをぐるりと見回した。
この部屋には学生だった頃から住んでいる。その八年ほどの間にずいぶんと物が増えたものだ。しかし、諒の部屋に引っ越す時には、全てを持って行くことはできないだろう。やや感傷的な気分になりながら、適当に目についた場所を整頓し始めた。
ひとまずはこんなものだろうと切り上げたところで、インターホンが鳴った。諒が到着したようだ。急いで玄関まで出て行き、念のためにのぞき穴で確認してからドアを開け、彼を迎え入れた。
「待たせたかな?」
「うぅん、全然。ありがとう。あ、ちょっと待ってて。荷物、持ってくる」
私は玄関先に諒を待たせたまま部屋に戻った。最後にもう一度戸締りを確認し、紙袋を手にして玄関に向かった。
靴を履き終えた私を諒が促す。
「行こうか」
部屋を後にして私は諒の後に続いた。
エントランスを出た所で、彼は私を振り返る。
「来客用が空いていなかったから、車は向こうの有料の方に停めたんだ」
「え、そうなの?たったこれだけのために、なんだかごめんね」
「全然、気にしないでいい。例の件がもう終わったのか、そうでないのか分からない今、やっぱり油断はしない方がいいし、心配だからさ」
「ありがとう」
諒に笑顔で礼を言ってから、私はあることを思い出した。
「ポストの中、見てくるの、忘れた」
「それなら一緒に見に行こう」
「一人で大丈夫よ。ちょっとだけ待ってて」
諒が何かを言う前に、私は建物の中へ戻るためにぱっと踵を返した。
その時だった。
建物脇の茂みの陰から女性が突然飛び出してきて、私の目の前に立った。
私は反射的に体を引き、戸惑いながら女性に目を向けた。どこかで見たことがある人だと思った次の瞬間、女性が私に向かって突進してきた。
「あなたさえいなかったら……っ」
「瑞月っ!」
女性と諒の声が重なって聞こえた。
軽い衝撃を感じたと同時に、私は身をすくませて目をぎゅっと閉じた。いったい何が起きたのかと、恐る恐る目を開けたそこには、諒の広い背中があった。
彼は振り返らないまま、私を気遣う言葉をかけてよこす。
「大丈夫だったか。怪我はない?」
「え、えぇ、大丈夫だけど……」
驚愕と恐怖とで鼓動が激しく打っていた。縋りつきたい気持ちになって諒の背中に手を伸ばしかけ、どきりとする。彼が左腕を押さえていた。
「諒ちゃん、腕、どうしたの」
訊ねながら、私は目を凝らした。街灯の白い灯りの中でも分かる程、腕を押さえている彼の指の間が不自然にじっとりと濡れていた。
「血……?」
つぶやく声はかすれ、足が震える。
「諒ちゃん、怪我、したの……。ど、どうしよう、あ、救急車……」
「せ、先生のこと、傷つけるつもりは、なかった……」
女性のか細い声が耳に入った。
私はのろのろと首を動かして、彼女の手元を凝視した。何かが街灯の光を受けて、きらりと反射した。私の目にそれはナイフのように見えた。全身から血の気が失せるような心地で、私は震える手でスマホを取り出す。
「け、警察を……っ」
「瑞月、落ち着いて。俺は大丈夫だ。上着を着ていたから傷は浅いよ」
私を止める諒の声は冷静だった。
彼は私を安心させるように微笑んでから、女性に目を向ける。
「ところであなた、受付の人ですよね」
自分に怪我を負わせた女性に対して怒りをぶつけるのではなく、むしろ淡々と静かな口調で、諒は彼女に声をかけた。
彼女の表情が凍りつく。
「少し前に、ここの郵便受けにおかしな手紙を入れたのは、あなたですよね?それだけで終わらせていればよかったものを、まさか、こいつを傷つけようとするなんて……」
諒の指と指の間から見えている血は、それ以上は広がっていないようだ。本人は大丈夫だと言ってはいたが、心配でたまらない。
「諒ちゃん、今すぐ警察を呼ぼう。怪我だって、早くなんとかしないと……」
私はハンカチを取り出し、彼の腕に巻きつけようとした。
諒はそれを使って、斬られたと思われる部分を抑えて、私に微笑んで見せる。
「怪我の方は、本当に心配いらないよ。それに確かに、警察を呼ぶべきなんだろうな。だけど……」
諒は言葉を切って彼女に向き直る。
「明日にもうちの病院を辞めて、今後一切私たちには関わらないと約束してくれるのなら、今日のことは忘れてもいいです」
「な、何を言い出すの?!」
落ち着けと言うように私を目で制し、諒は女性に向かって話し続ける。
「あなたにも、あなたを大切に思っている家族や友達がいるはずでしょう?こんなことで、周りの人たちを悲しませることになってもいいんですか?」
諒はまるで諭すかように彼女に語りかけた。
その声音の中に温かさを感じたのは、私の思い過ごしだったろうか。
コメント
1件
優しさが仇となる事もあるのよ。ここは警察を呼ぶ方がいいんじゃないかな? 殺意があったとしか思えないもの。