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第88話:三つの主体
朝の街は、法律から始まる。
駅前の大型表示に、淡緑の文字が静かに流れている。
本日適用中
安心価値標準化法律
安心センター統合法
安心段階分類法
市民ランク運用細則
人は立ち止まらない。
読む行為は選択だが、従うことは前提だからだ。
ホームに立つ ゆづ(10)は、水色の上着に灰色のスカート。
髪は肩で切りそろえられ、胸元には安心段階タグ。
年齢を示すものはどこにもない。
隣に立つ母の かなえ(32)は、淡緑のコートにモカ色の靴。
指先まで整えられた姿勢で、視線は前方の線路だけを見ている。
列車が来る前、天井の小型スピーカーが鳴る。
本日の移動は安心基準内です
動線を維持してください
誰も顔を上げない。
それが正しい反応だから。
── 表の主体は、法律。
法律は声を持たず、表情もない。
だが、この国で一番強い。
列車が動き出すと同時に、街の裏側も動いている。
高架の影。
淡緑ではなく、墨染めに近い装束の人影が、無音で通信端末を操作している。
顔は半分マスクに覆われ、視線だけが鋭く動く。
ニンジャ。
法律の文言を、思考に変換する側。
車内の会話ログ、視線の揺れ、体温の微細な変化。
すべてが解析され、翡翠核へ送られていく。
その少し離れた場所。
交差点では、濃い緑系の制服を着た数名が立っている。
背筋はまっすぐ、装備は最小限。
周囲の市民は、無意識に距離を取る。
サムライ。
法律を、行動として成立させる側。
横断歩道で、子どもが一歩だけ前に出過ぎる。
サムライの一人が、わずかに手を上げる。
声は出さない。
それだけで、全員が足を止める。
注意も叱責もない。
必要がないからだ。
昼。
安心センターの前。
建物は淡緑と灰の外装で、角が丸く整えられている。
入口には花も掲示もない。
あるのは、用途だけ。
体調
心理
手続
処理
中へ入る市民。
水色の服に灰色のズボン。
視線は低く、歩幅は一定。
受付の職員は、髪を後ろでまとめ、無表情に近い穏やかさを保っている。
声は柔らかいが、選択肢は示さない。
ここでは、
法律が判断し、
サムライが確定させ、
ニンジャが記録する。
夕方のニュース。
画面に映るのは人ではなく、図と文字。
本日、市民ランクの再配分が一部地域で完了
安心値は全体として安定傾向
アナウンサーは淡緑の背景の前で、灰色の服を着ている。
表情は一定。
感情は不要だ。
夜。
公園になった旧墓地。
地面の下では、セイレン処理後の水が都市循環へ流れている。
上では子どもたちが走る。
影は薄く、怖さはない。
ゆづが立ち止まり、かなえの袖を引く。
「ねえ。ここって、だれが守ってるの?」
かなえは少し考え、静かに答える。
「法律が決めて、
サムライが動かして、
ニンジャが見てるの。」
ゆづは空を見上げる。
そこには何も映っていない。
大和国では、
法律が表の主体。
サムライとニンジャが裏の主体。
三つが重なり、
誰も責任を持たないまま、
すべてが正しく進んでいく。
それが、
この国の安心だった。
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