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第89話 安心法定放送
朝六時。
起床アラートよりも少し早く、
リビングの画面はすでに点いていた。
映っているのは、ひとりの男性。
年齢は測れない。
老いているようにも、そうでないようにも見える。
整えられた色の抜けた髪。
表情は固定されているわけではないが、変化が意味を持たない。
服は簡素だ。
灰色の上着。
襟元の内側にだけ、淡緑の布が覗いている。
階級章も、所属も、名前もない。
背後には何もない。
壁なのか、背景なのか、処理された空間なのか。
判断できないように設計されている。
男性は正面を向き、
呼吸、瞬き、口の動き、すべてが一定だった。
低く、穏やかな声が流れる。
安心価値標準化法律。
第一章。
安心とは、計測可能な国家資源である。
声と口の動きは一致している。
だが、わずかに遅れているようにも感じられる。
気づいても、考える必要はない。
ソファに腰を下ろした男性。
背中は丸く、部屋着も灰色。
手には湯気の立つマグ。
中身の色は確認しない。
画面は見ていない。
だが、耳は自然に向いている。
向けているというより、
身体がすでにその姿勢を覚えている。
この人物が誰なのか。
本物なのか、生成映像なのか。
考える必要はない。
放送されている。
それだけで、今日が始まる。
キッチンでは、女性が朝食を整えている。
モカ色のエプロン。
肩までの髪を低い位置でまとめ、
手首には何もつけていない。
指先で、音量を少し下げる。
音は小さくなる。
だが内容は、端末に同期される。
安心センター統合法。
安心段階、市民ランク、家庭ランク。
理由の説明は行われない。
結果のみが更新される。
午前九時。
駅の待合スペース。
縦長の画面にも、同じ男性が映っている。
背景も、服も、角度も同じ。
移動していないように見える。
だが、どこにでもいる。
スーツ姿の女性。
淡緑のラインが入った上着。
磨かれた靴。
画面を見上げない。
見る必要がないからだ。
バッグの内側で、端末が一度だけ振動する。
現在放送中。
居住区分および安心導線管理法。
確認済。
昼。
食堂の壁。
湯気の向こうで、同じ口が動いている。
市民の生活、職務、学び、家族形成は、
安心への寄与度として評価される。
若い男性が箸を止める。
水色のインナーが、上着の隙間から見える。
表情は動かない。
法律が読まれているあいだ、
世界は正常であると確認できる。
夕方。
帰宅した家々で、
同じ顔が、同じ声で流れる。
床に座る子ども。
大きめの服。
袖が手を隠している。
画面は見ない。
声だけを聞いている。
この時間帯、
声の調子がわずかに変わる。
水帰は、こわくありません。
循環は、安心です。
親は何も言わない。
補足もしない。
必要がない。
夜。
貨物安心検査法。
外物薬および絶賛外物の取り扱い。
未来適性試験および社会貢献評価。
一度読まれた法律も、
何度も繰り返される。
理解のためではない。
記憶のためでもない。
生活の一部に溶かすため。
深夜零時。
画面は切り替わらない。
声も変わらない。
街は静かだ。
誰も、うるさいとは言わない。
大和国では、
法律は守るものではない。
浴びるものだ。
浴び続けることで、
問いを持たなくなる。
そしてそれを浴びせている存在が、
人なのか、作られた像なのかは、
もう重要ではなくなっている。
朝になれば、
同じ顔が、同じ声で、
同じ法律を読み始める。
今日も、
安心は更新される。
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