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その瞬間、何かが静かに壊れた音がした気がした。 空気が、少しだけ、よどんだ。
教室の片隅。カーテンで仕切られた奥に、遥は立たされていた。 椅子はない。机もない。彼の背には窓があり、差し込む午後の光が、無機質に床を照らしている。
「──もう、声出せないの? 飽きた?」
ひとりの生徒がそう言って笑った。声は明るく、残酷だった。 その声に釣られて、何人かが顔を見合わせる。ふざけたように笑う者、黙ったまま携帯を構える者──どれも日常の一部のようだった。
遥は何も言わなかった。いや、言えなかった。 視線を床に落としたまま、わずかに震える指先が、彼の中での“限界”を伝えていた。
「今日は“いつもと違うやつ”って、言ったよな?」
もうひとりが、ぽつりと呟いた。 その場にいた誰かが、ニヤついた。
「うん、そうだ。だからさ……今日は“順番”じゃなくて、“挑戦”ってことで」
空気が、にわかに粘ついた。 笑い声が消え、かわりに低く、押し殺した呼吸が重なる。
「おまえが、泣かないなら──こっちは、どうしたら“泣かせられる”か、試すだけだろ?」
乱暴に掴まれた腕が、机に打ちつけられる。 乾いた音。小さな悲鳴。だがそれを聞いて、誰も止めようとはしない。
「動くなよ」
押し倒されたわけではない。だが、その拘束は明らかに“意思の封じ込め”だった。 誰かの手がシャツの裾を捲り上げ、肌をさらけ出す。 そして、そこにカッターの先が当てられた。
「……こっちは“文字”で攻めるの、得意なんだ」
カッターの芯が、肌の上に押しつけられ、ゆっくりと線を引く。 力は弱くとも、皮膚をなぞる感触は鋭く、遥は体を固くした。
「や、やめ──」
初めて出た声だった。 掠れた、けれど、確かな拒絶。
しかしその声は、空気を変えるどころか、むしろ熱を帯びさせた。
「今の録れた? なあ、マジで良くない?」
「いい声。てか、“やめ”って言ったよね? でも“お願い”はしてない。甘えてない。……中途半端。だからもっと、奥まで押さないと」
遥は目を伏せた。 呼吸が乱れていた。
その時、誰かが扉の向こうで動いた音がした。 けれど誰も振り返らない。 この空間は密室ではない。だが、誰も入ってこない。それを、彼らは知っていた。
「先生が来たらどうするんだよ」 誰かが小声で言った。
「来ねえよ。てか、来たって“何も見えない”ようにしてある」
カーテンの内側。 密室でない密室。 その中で遥は、ただ、震えていた。
恐怖ではない。 絶望でもない。 それは──無力感。
彼は知っている。ここで声を上げたところで、誰も止めてはくれない。 同情も、ない。 あるのはただ、反応を“待たれている”という、役割としての存在。
「──次、背中な」
言葉が落ちた瞬間、遥の表情がわずかに歪んだ。 目の奥に、光が戻る気配があった。
「痛ぇぞ、たぶん。けど、声出せよ? そっちの方が、ウケるから」
次の瞬間、何かが破れたような音がした。 遥の中で何かが、はっきりと弾けた。
「──っ、うるせぇ……ッ!!」
低く、怒鳴るような声ではなかった。 けれど、それは確かに“怒り”だった。 教室の空気が、ぴたりと止まった。
数秒の沈黙。
その後、笑いが、混じったように起きた。
「……マジ? なにキレてんの、こいつ」 「てか、それも録っとけよ。使えるから」
だが、その場にいたひとりだけが、口を閉ざしていた。
彼は思った。 ──今の声、ちょっと、違った。
何が違うのか、言葉にはできなかった。 だが、その「違和感」だけが、妙に脳裏に残った。
その日の夜、彼はその録音を再生しながら、何度も聞き返すことになる。
遥の“声”を。