テラーノベル
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金曜の五時間目、終わりのチャイムが鳴ったとき、教室の空気は一気に緩んだ──はずだった。 けれど遥だけは、微かに吐いた息の震えを止められなかった。
いつものやつ、じゃない。 今日の班は、「違う」やつらだった。 事前に知らされることはない。名簿のようなものがあるわけでも、日直のような交代制があるわけでもない。ただ、“誰か”が勝手に順番を決め、“誰か”がそれに従うだけだった。 形式は曖昧で、だがだからこそ、確かに機能している“制度”だった。
「なあ、来いよ」
そう言って声をかけてきたのは、普段ほとんど遥と関わらないような男子生徒だった。声色に感情はない。ただの業務連絡のようだった。 笑い声。どこかの席から机を蹴る音。女子たちはちらりと視線を寄越し、それから一斉に目を逸らした。
歩き出す。教室の後方、掃除用具入れの隣にある小さな物置室──いちおう教師の備品が置かれている名目のその場所。 だが、教師の姿など見たことがなかった。
鍵は、閉まらない。 つまり、それは「いつでも開けられる」空間でありながら、実際には誰も開けようとしない“密室”だった。
引き戸が音を立てて閉まる。
「──今日は、さ。ちょっと、趣向変えよっか」
誰かが言った。笑いながら。声の端に、これまでにない熱が滲んでいた。 その瞬間、遥は僅かに息を詰める。
制服の上から、何か硬いものが押し当てられた。角ばったそれは── 「え、なにそれ」 「グルーガン。固めたヤツ。熱くはないけど、角で擦るとさ……わかるよな」
指先で頬をなぞられる感覚。爪ではない。もっと鋭く、もっと「作為的」だった。
「反応してみ?」
頬を擦られたまま、遥はゆっくりと顔を上げた。目だけが、冷たく相手を射抜く。 口元は、笑ってもいなければ、震えてもいない。
「……暇なんだな」
一瞬、空気が止まった。
「……は?」
「くだらねぇ。そんなもんで、壊れるわけないだろ」
それは挑発ではなかった。ただ、彼の内側から零れ出た「真実」だった。 その言葉に、男たちはしばらく黙った。
「──へぇ。面白いじゃん」
ひとりが笑った。 次の瞬間、遥の腹部に鈍い衝撃が走った。足で蹴られた。 内臓にまで響く痛み。声が漏れる──が、それを遮るように誰かが背後から口を塞いだ。
「泣かねぇなら、声は取らせてもらうだけだって」
スマートフォンのマイクが、口元に差し出される。
「“ごめんなさい”って、ちゃんと言ってみ? でなきゃ、もう一発ずつ増えるよ」
膝をつく。立ち上がる余力はない。だが、遥はそれでも唇を震わせた。
「……俺は、悪くない」
その言葉に、一瞬だけ静寂が流れた。 次いで──
「マジ、最高。撮った? いまの顔、やべぇ」
誰かの笑い声が爆発する。
教室の片隅、物置室の中──見える人間には見えていた。 だが、「聞こえないふりをする」という選択肢が、この教室では常態化していた。
扉の外。誰かが通り過ぎる。 視線は向けられるが、歩みは止まらない。
密室ではない。閉じられてもいない。 それでも、救いは決して入り込まない。
──開かれた密室。
遥は、膝を床につけたまま、ふと顔を上げた。
見えてしまった。 携帯のカメラ越しに、自分を見下ろす「無数の目」たち。
彼は、ただ静かに吐息を漏らした。 それは泣き声でも、怒りでもない。ただ、微かに崩れ始めた「輪郭」だった。
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