テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その夜遅く、デシアは一人で橋の上に立っていた。
川面は街灯を崩しながら流れ、遠くの車の音が水に溶けていく。昼よりずっと寒いのに、彼女はコートの前を閉めることすら忘れていた。
やがて階段を上がってくる足音がする。
サラだった。
診療所帰りにしては遅い時間なのに、彼女は当たり前のように隣へ立つ。
「まだ帰ってなかったんだ」
「帰ったら、明日も言えないと思って」
サラは欄干に肘を置いた。
「じゃあ今夜で終わらせよう」
その言葉に押されるように、デシアは口を開いた。
事故の夜。
上演中、装置の異音に気づいて最初に走ったのはサベリオだった。誰より舞台を見ていたから、誰より早く危険に気づいた。
だが彼が飛び込んだ先にいたのは役者ではなかった。
橋の下へ迷い込んで、舞台袖の陰に入り込んでしまった小さな子どもだった。
観客席の喧騒に押され、気づかないまま装置の近くへ行ってしまったその子を、サベリオはかばった。自分が支えるはずだった器具を手放してでも、そちらを選んだ。
「私は見てた」
デシアの声はかすれていた。
「でも、あの子の家のことも知ってた。あの場で名前が出たら、親も学校も巻き込まれて、あの子だけの傷では済まなくなるって思った」
サラは黙って聞いている。
「だから私、言わなかった。言えなかった。代わりに、別の説明でごまかした。そしたら全部、サベリオに乗った」
橋の上を抜ける風が、言葉のあとへ冷たく吹いた。
サラが問い返す。
「その子、今どこにいるの」
デシアはゆっくり息を吸った。
「もう子どもじゃない」
その時、背後で足音が止まった。
二人が振り返ると、階段の途中にトゥランが立っていた。
生徒会のジャージ姿のまま、顔だけが白くなっている。聞かせるつもりはなかった。けれど、聞かれてしまった。
しばらく誰も動けなかった。
トゥランが最初に口を開く。
「……俺?」
デシアはうなずいた。声は出なかった。
トゥランはその場に立ち尽くしたまま、何度か息を吸って、吐いて、それでも表情が追いつかない。思い出せないはずの夜なのに、体のどこかが先に知ってしまったみたいだった。
「俺、小さい頃、橋の下で迷ったことある」
ぽつりとこぼれる。
「母さん、夜勤で。迎え待ってるうちに、音がして、人がいて、面白そうで……」
そこまで言って、彼は口を押さえた。
デシアの目にも、サラの目にも、同じ夜が浮かんでいた。
トゥランはゆっくりと顔を上げる。
「じゃあ、あの事故の時、サベリオさんは」
「君を守った」
サラが静かに補った。
トゥランの肩が震えた。
怒りか、驚きか、悔しさか、そのどれか一つではない。守られた記憶がないまま、誰かだけが悪者にされ続けていた事実が、遅れて胸へ落ちたのだ。
「なんで、今まで……」
「ごめん」
デシアはその一言しか言えなかった。
トゥランは目元をぬぐい、しばらく橋の下を見た。そこにはいつものシェルターの入口が見える。湿った壁も、古い電球も、全部変わらずそこにある。
なのに、見え方だけが変わってしまった。
やがて彼は小さく言う。
「俺、今からでも返せるかな」
サラが答える。
「返すっていうより、繋ぐんじゃない」
その言葉に、トゥランはもう一度だけ目を拭った。
「だったら、橋の上で言う」
デシアが顔を上げる。
トゥランの瞳は、さっきまでと違っていた。泣いたあとの赤さの奥に、何かを決めた熱がある。
「黙ってたら、また同じことになる」
彼はそう言って、階段を駆け下りていった。
橋の上には、風と川の音だけが残る。
デシアは欄干へ手を置き、震える指先をようやく握り込んだ。
明日にはもう、知らなかった頃へは戻れない。