テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その夜の稽古が終わっても、誰もすぐには帰らなかった。
橋の下の長机には、飲み終えた紙コップと書き込みだらけの台本、さっきまでホレがにらんでいた進行表が広がったままだ。外では川風が橋脚を回り、深い時計の針が少し遅れた拍で夜を刻んでいる。
デシアは台本を閉じると、ゆっくり立ち上がった。
その動きだけで、皆が何となく口を閉じる。
「主役、決める」
モルリがすぐに身を乗り出した。
「やっと来た」
ヌバーはわざと胸を張る。
「では僭越ながら、満を持して私が」
「違う」
デシアが即答した。
軽く笑いが起きる。けれど、その笑いはすぐ静かになった。デシアの視線が、まっすぐサベリオへ向いていたからだ。
サベリオは一拍遅れて、自分が見られている理由に気づく。
「え」
「あなた」
デシアは言った。
「『春の音』の真ん中に立つのは、あなたしかいない」
橋の下に、川の音だけが通る。
サベリオは反射みたいに首を振った。
「無理だよ」
「無理かどうかは、もう見た」
デシアは引かない。
「上手い下手じゃない。この役が持ってる間を、あなたは知ってる」
「知ってるだけで、やれるとは限らない」
「でも、他の人だと違う」
デシアは一歩だけ近づいた。
「この人は、帰る場所があるって信じたいのに、信じきれない。その揺れを、あなたは隠せないで出す」
隠せない、という言い方に、サベリオは少しだけ苦い顔になる。
図星だった。
ミゲロがゆっくり道具箱を閉める。
「俺も、サベリオだと思う」
ホレも帳面を抱いたまま頷いた。
「段取りは私が全部支える。逃げ道がないくらいに」
「それ支え方としてちょっと怖い」
ヌバーが言う。
パルテナは壁にもたれて腕を組んでいたが、目だけはまっすぐだ。
「逃げたいなら逃げれば」
ぶっきらぼうに言ってから、少し間を置く。
「でも、逃げたあともその台本、あんたの顔して残るよ」
その一言は、いつものように刺すためではなかった。ただ、嘘を置かないための声だった。
サベリオは何も言えず、台本を見下ろした。紙の角は何度もめくられて柔らかくなっている。そこにある文字はデシアが書いたものなのに、近頃は自分の息づかいまで染みついている気がした。
デシアが静かに最後の一押しをする。
「私、ずっと読むのをやめてた」
彼女の声は揺れない。
「でも、あなたが誰かの夢に手を添える文章を書いてたのを読んで、逃げるのやめようと思った。だから今度は、あなたが前に出て」
サベリオの喉が小さく鳴る。
皆が待っている。急かさないくせに、もう後ろへは下がらせない空気で。
しばらくして、彼は深く息を吐いた。
「……分かった」
モルリが飛び上がる。
「よし来た!」
「まだ最後まで聞いて」
サベリオは苦笑した。
「怖いし、向いてるとも思えない。でも」
台本を胸の前で持ち直す。
「やるなら、途中で逃げない」
デシアの目が、ほんの少しだけ緩んだ。
「じゃあ、最後までやる」
サベリオははっきり言った。
その瞬間、橋の下の空気が変わった。
誰かが拍手しようとして、でも早すぎる気がして手を引っ込める。その代わり、ミゲロが無言でサベリオの肩を軽く叩いた。ヌバーは口笛を吹き、ホレは即座に稽古表を書き換え、モルリはなぜか外へ出て橋の上へ向かって「決まったー!」と叫んだ。
「近所迷惑」
ホレが言う。
「今日くらいはいいでしょ!」
その声が橋の骨組みに跳ね返り、夜の川へ落ちていく。
サベリオは騒がしい仲間たちを見て、ようやく少しだけ笑った。
怖さは消えていない。むしろ、はっきり形を持ち始めている。
それでも、前より息がしやすかった。
デシアがそっと台本を差し出す。
「明日、二人で読む」
サベリオは受け取る。
「……うん」
薄い紙の重さが、妙に頼もしかった。