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翌日の夜、橋の下にはいつもより早く人がそろった。
長椅子の向きが少し変えられ、裸電球の位置もヴィタノフが丁寧に整えている。音を確かめるふりをしながらジャスパートが録音機を置き、ホレは「無駄に騒がない」と書いた紙をヌバーの前に置いた。ヌバーは不服そうだったが、今日はさすがに声を潜める。
中央に残された二脚の椅子。
そこに、サベリオとデシアが向かい合って座った。
サベリオの手は、昨日より明らかに硬い。台本の端を持つ指先に、うっすら力が入りすぎている。デシアはそんな彼を一度だけ見て、それから自分の頁を開いた。
「最初、私から入る」
彼女が言う。
「助かる」
サベリオは正直に返した。
「でも、その次はあなた」
「知ってる」
ちいさな笑いが起きて、少しだけ場がほどけた。
デシアが息を吸う。
橋の下の空気がすっと静まる。
彼女の第一声は、前の朗読みたいな完成された響きではなかった。もっと近い。目の前の相手へ届くように、声の角を落として置いた感じだった。その変化に、サベリオは一瞬だけ顔を上げる。
デシアは読み進める。
雨宿りのために橋の下へ来た人。帰る場所があるはずなのに、なぜかすぐには帰れない人。言えなかったことを、冗談の形で落とす人。『春の音』の冒頭が、深い時計の針みたいにゆっくり回り出す。
そして、サベリオの番が来た。
彼は息を吸った。
昨日より少し深く、でもやっぱり固い。
最初の一言は、喉にひっかかった。言葉の頭だけが出て、続きが遅れる。
モルリが思わず身を乗り出しかけ、ホレが袖を引いた。
サベリオは目を閉じかけて、やめた。
視線を落とした先に、台本の文字がある。紙の向こうに、橋の下の冷たさ、濡れた鉄の匂い、誰かが帰れないまま笑っていた夜が重なる。
もう一度、彼は口を開いた。
今度は、ちゃんと届いた。
上手く飾ろうとしない声。少し低くて、乾いていて、それなのに言葉の最後だけが妙にあたたかい。橋の下に座っている皆が、同時に顔を上げる。
デシアはその反応を見ない。
目の前の相手にだけ、自分の台詞を返す。
二人の声が往復し始める。
ぎこちないところは確かにある。サベリオはまだ間を持て余すし、デシアも感情を抑えようとした拍が少し長い。けれど、噛み合わないのではなく、手探りで近づいていく感じがあった。
途中、サベリオが一行飛ばしかけた。
すぐ隣でデシアが小さく次の語を置く。
彼はその音を拾って戻る。
また少し先で、デシアの声がわずかに揺れた。
今度はサベリオが、予定より半拍長く黙って待った。
その沈黙に支えられて、彼女は次の台詞へ進めた。
ヌバーが唇を結ぶ。からかう余地がない時の顔だった。
ミゲロは膝の上で手を組んだまま動かない。
パルテナだけが、時々険しい顔になる。粗を探しているようでいて、その実、追いつこうとしている目だ。
読みは終盤へ入る。
橋の下へ流れ込んだ雨音の記憶。
帰れないまま座る人へ差し出される、ぬるい缶飲料。
声をかけたいのに、かけ方が分からない人の沈黙。
デシアが書いたものを、サベリオの声が別の色に変えていく。
最後の一往復を読み終えた時、二人ともすぐには顔を上げなかった。
静かだった。
拍手が遅れたのは、誰もが、今ここで音を立てたら壊れる気がしたからだ。
いちばん先に動いたのは、ヌバーではなかった。ミゲロでも、モルリでもない。パルテナだった。腕を組んでいた手を解き、指先を一度だけ握りしめ、それから小さく息を吐く。
「……悔しい」
彼女が呟く。
その一言で、堰を切ったみたいに空気が戻った。モルリが両手で口を押さえて泣き笑いし、ヌバーが「今の拍手、どのタイミングだった?」と困り、ホレは帳面を胸に抱えたまま何度も頷く。
デシアがようやく顔を上げる。
まっすぐサベリオを見る。
「届いた」
サベリオはまだ少し呆けたまま、
「……俺、今、何話したっけ」
と本気で言った。
「主役の台詞」
パルテナが答える。
その言い方に、橋の下の皆が笑った。
笑いながら、誰もが分かっていた。さっきの読みで、この芝居の芯が初めて形になったのだと。