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第95話 片付け屋
玄関の鍵が開く音は、ほとんどしなかった。
住宅区画は午前中でも静かだ。
一定の温度、一定の明るさ。
通路の床には淡緑の誘導光が流れ、誰も立ち止まらない。
片付け屋が入る。
民間登録だが、背中の端末は国の規格だ。
灰色の作業着。
肩口に小さな識別タグ。
年齢は分からない。髪は短く、整えすぎていない。
靴を脱ぐ動作が早い。
もう、何度も来ている動きだった。
ここは単身者の住戸。
昨夜、セイレン処理は完了している。
室内の空気は、すでに少し変わっていた。
温度は保たれているのに、人の気配だけが抜けている。
作業は確認から始まる。
壁際の端末に触れる。
表示は簡潔だ。
循環完了
一時静止住戸
室内再編開始可
片付け屋はうなずかない。
確認は感情を必要としない。
台所。
流し台はきれいだ。
食器は揃っているが、使われた気配が止まっている。
冷蔵庫を開ける。
中身は少ない。
期限、成分、摂取履歴。
再配給可
資源回収
廃棄
光が静かに振り分ける。
飲食物は「誰かにあげるもの」ではない。
循環の途中で、一度止まっていただけだ。
居間。
低いテーブル。
椅子は一脚だけ。
座面にわずかな癖が残っている。
片付け屋はそれを直さない。
癖は記録され、やがて消える。
棚の中。
写真立て。
紙の手紙。
折り目のついた封筒。
端末が短く振動する。
心理揺らぎ因子
データ化後、実物回収
スキャンは一瞬だ。
内容を読む必要はない。
大和国では、読むことと保存は別の行為だ。
衣類。
モカ色の上着。
淡い色合いのシャツ。
すり減った袖。
再配給可
資源回収
タグを外し、袋に入れる。
誰が着ていたかは残らない。
寝室。
ベッドは整っている。
寝具の形が、もう戻らない形だ。
片付け屋は、少しだけ空間を見回す。
何も考えていない顔。
考える必要がないからだ。
作業の終わりに、床を軽く拭く。
匂いを消すためではない。
基準に戻すためだ。
玄関。
最後に端末を操作する。
循環住戸
待機状態へ移行
次回割当未定
扉が閉まる。
外では、別の住戸の配給音が聞こえる。
子どもの笑い声。
通学の足音。
誰も、この家のことを話題にしない。
片付け屋は次の住所を確認する。
淡緑の表示が、また一つ進む。
大和国では、
死後に来る人がいることで、
死は事件にならない。
片付け屋は、悲しみを片付けない。
ただ、生活を元の形に戻す。
それだけで、社会は静かに続いていく。