ホエールウォッチングに続き、満天の星空を堪能した美宇の心は、すっかり元気を取り戻していた。
自然が人を癒す力はあなどれない。
季節は深い眠りの冬へ向かっているはずなのに、美宇の心は夏のように生き生きとしていた。
北海道の大自然が、美宇に力を与えてくれる。
そんなある日、工房に客が訪れた。
陶芸教室のないこの日、朔也は街へ用事で出かけていき、美宇は工房で一人、作陶しながら留守番をしていた。
そのとき、見慣れない車が駐車場に停まり、一人の女性が工房に入ってきた。
「ごめんください」
「いらっしゃいませ」
「あら? あなたは?」
「スタッフの七瀬と申します」
「七瀬……さん? あら、いつの間にスタッフなんか雇ったのかしら」
女性は、身体のラインを強調するようなオフホワイトのニットワンピースを身に纏っていた。
手入れの行き届いたワンレングスの髪に、透き通るような白い肌。
派手なメイクとネイルが、その姿を引き立てていた。
おそらく、都会の人なのだろう。
朔也の仕事関係の人かもしれないと思った美宇は、女性に声をかけた。
「あの……どちら様でしょうか?」
その問いに、女性は無表情のままバッグから名刺を取り出し美宇に渡した。
名刺にはこう記されていた。
【高梨画廊・企画部・高梨亜子(たかなしあこ)】
「私、高梨と申します。来年、札幌で開かれる個展の件で、朔也さんにお会いしに参りました」
朔也を『名前』で呼んだことに、美宇は驚いた。
二人は親しい関係なのだろうか?
「青野は今、街へ出ていますが、もうすぐ戻ると思いますので、どうぞおかけになってお待ちください」
美宇はなるべく綺麗な椅子へ亜子を案内した。
すると亜子はバッグからハンカチを取り出し、座面をさっと払ってから腰を下ろした。
その仕草に違和感を覚えたが、美宇は平静を装い続ける。
「今、お茶をお持ちしますね」
「どうぞ、おかまいなく!」
つんとした口調で答えると、亜子は携帯を取り出し、画面をいじり始めた。
奥のミニキッチンへ行くと、美宇は思わず「ふぅ」と息を吐いた。
亜子は、美宇が最も苦手とするタイプの女性だった。しかも、誰かに似ているような気がする。
(圭の婚約者、広瀬ユリアに似てるんだわ……)
そう思った瞬間、憂鬱な気持ちになる。
だが、私情を挟んで邪険にするわけにもいかず、美宇はなんとか平静を装い、コーヒーを淹れ始めた。
コーヒーを持っていくと、亜子は先ほどと同じ姿勢でまだ携帯をいじっていた。
「どうぞ」
美宇がテーブルにカップを置くと、亜子はちらりと視線を上げ、美宇の全身を舐めるように見た。
そしてこう言った。
「あなたは、いつからここにいるの?」
「10月からです」
「ふぅん……まだ来たばかりなのね。前はどちらに?」
「東京のアートスクールにいました」
「ということは、あなたも陶芸を?」
「はい」
「そう……」
亜子はツンとすましたままそう言い、美宇の淹れたコーヒーを一口飲んだ。
次の瞬間、わずかに眉をひそめる。
(お口に合わなかったのかな……)
学生時代、喫茶店でアルバイトをしていた美宇は、コーヒーを淹れる腕には自信があった。
だが、今の亜子の表情を見て、その自信が一気に揺らぐ。
(どうしよう……このままでは、彼女の機嫌を損ねてしまう……)
朔也の大切な客に対応する自信をなくした美宇は、落ち着かずソワソワしていた。
そのとき、表で車の音がした。朔也が戻ってきたようだ。
車のドアがバタンと閉まる音に続き、工房の扉が開いた。
室内に入ってきた朔也は、亜子の姿を見て目を見開く。
「高梨さん……どうしてここに? 打ち合わせは、たしか来月じゃ……」
その声には、明らかな驚きがにじんでいた。
「お久しぶりです。来月まで待てなくて、つい来ちゃいました」
「それはわざわざすみません。ただ、まだ製作中のものばかりで、今、お見せできるものはないんですよ」
「ううん、いいんです。朔也さんにお会いして、少しお話ししたかっただけですから……」
「それだけのために、わざわざ?」
「ええ」
亜子はとろんとした目で、朔也を見つめた。
(この人……青野さんのことが好きなんだわ……)
同じ女だからこそ、美宇にはすぐに分かった。
その瞬間、自分はここにいてはいけないような気がしてきた。
美宇は慌ててその場から立ち去ると、朔也の分のコーヒーを淹れて持っていく。
そして、逃げるように、ミニキッチンの並びにある工房の備品庫へ向かった。
ドキドキと高鳴る鼓動を抑えながら、美宇は必死に冷静さを取り戻そうとした。
そして、この機会に、以前から試そうと思っていた釉薬の調合に取りかかることにする。
備品庫には、土灰や長石、酸化鉄、酸化銅といった釉薬の材料が整然と並んでいた。
ちょうど新しい色を生み出したいと考えていた美宇は、心を落ち着けるようにひとつひとつの素材を手に取り、調合を始めた。
美宇が目指している色は、淡いブルーにサーモンピンク色が溶け込むような優しい色合いだ。
それは、オホーツク海に沈む夕日のイメージだった。
一度、その色を求めて釉薬を調合し陶器を焼いてみたが、思うような仕上がりにはならなかった。
だから、今回は再チャレンジだ。
美宇は夢中で調合を進めていく。
気づけば、さきほどの亜子のことなど、すっかり頭から消えていた。
あれから、どのくらいの時間が経っただろうか?
没頭していた美宇の背後から、突然声が響いた。
「もう帰ったよ」
亜子が帰ったことを、朔也が知らせに来てくれたのだ。
「あ、はい……」
美宇が工房に姿を現すと、朔也は少し疲れたような表情で言った。
「隠れなくてもよかったのに」
「あ、いえ……なんか、いない方がいいのかなと思って……」
美宇はつい心の内を素直に口にしてしまい、ハッとした。
その瞬間、朔也が一歩足を踏み出し、美宇の瞳をまっすぐに覗き込む。
「それは、どういう意味?」
まさか理由を問われるとは思ってもいなかった美宇は、急に焦り、後ずさりした。
必死に言い訳を探そうとするが、言葉が出てこない。
そんな美宇を逃すまいとするように、朔也はさらに歩みを進め、とうとう彼女を壁際まで追いつめた。
コメント
37件
嫌な女豹が登場…(゚д゚)!! でもそのおかげ(!?)で、お互い素直に本心を伝え合えるかも…😍💕💕ウフフ…続きが楽しみ🤭

皆さんのコメントが面白すぎて笑笑。壁ドンですか!いや、違うでしょ。でもそうあって欲しい🤭
嫌いならタイプの女性登場🥹 美宇ちゃんの方がずっと素敵だよ‼️ 壁際まで追い詰めて それから⁉️😍