テラーノベル
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家に戻るたび、空気が変わる。いや、正確には、自分が変わるのだと、悠翔は最近、少しずつ気づき始めていた。
靴を揃える指先がかすかに震える。視線は上がらず、ただ、音を立てぬように玄関を閉める。
階段を上がる前に、台所の気配を確認する。
母が立っていれば、声をかけねばならない。機嫌が悪ければ、それは一瞬で地獄に変わる。
「……ただいま」
言うと、沈黙が返る。
返事のない声ほど、恐ろしいものはなかった。
リビングの奥、テレビはついているのに、音がない。兄たちの気配はあるのに、笑い声がない。
何かがあったのか、それとも何もないことが“何か”なのか。
それを読むのが、まず家に帰ったときの最初の“仕事”だった。
階段の上から、次兄の声がした。陽翔ではない。もっと冷たく、理知的に暴力を選ぶ男の声。
「悠翔、さ、はやくしろよ。遅かったな。何してた?」
その言い方は、詰問でも、からかいでもない。
ただ、“理由を述べろ”という命令の声だった。
「……掃除当番だったから」
「ふうん。じゃあ、おまえ、日直でもないのに掃除当番押しつけられてんだ?
すごいな、弟。そんだけ他人に好かれてんなら、家に帰らなくてもいいんじゃね?」
背中に、母の視線を感じた。
言葉にはしない。
けれど、目だけが突き刺さってくる。
《そういう立ち位置でしか、おまえは意味がないんだからね》
それを繰り返し擦りこまれる日々だった。
夕食時、皿は三人分しか用意されていなかった。
悠翔の席には、いつもより乱暴に置かれたパンの袋と、飲みさしの牛乳。
食卓を囲む円に、自分だけが入れていないことを、あからさまに示す配置。
「どうせ、またどっかで無駄に人の顔色うかがってたんだろ? 学校でも、ここでも。
ほんっと、使えねえな。生きてる意味、知ってる?」
陽翔の声。
言葉が凶器ではなく“日常語”になっていることが、いちばんの恐怖だった。
悠翔はパンに手を伸ばさず、ただ黙って座った。
言い返すこともできるはずだった。
怒ることも、泣くことも、本当は許されるべきだった。
――けれど、ここでは、そのどれもが「罰の理由」になった。
皿の音が鳴る。兄の誰かがわざと強くフォークを置いた。
その音にすら「おまえのせいだ」と言われている気がして、指が冷えていく。
「食えよ、おまえの晩飯だろ?」
陽翔が、パンの袋を床に放った。
それが命令であることを、悠翔は知っていた。
拾わなければ、“他のこと”が始まる。
無言で手を伸ばす。
袋のなかの、つぶれたロールパン。まだ誰かの指の跡がついている。
それを見て、兄たちは笑いもせず、ただ視線を外した。
母はテレビに目を向けたまま、リモコンの音量を少しだけ上げた。
――ここには、もう「声」がない。
誰かに助けを求める声も、叱られる声も、許される声も。
だから悠翔もまた、「何も言わない」ことだけが、唯一の自衛だと思い込むようになった。
言葉が殺される。
家という場所で、何度も、何度も。
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