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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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展示会まで、あと一週間。
月椿堂の奥座敷は昼も夜も関係なく明るかった。布の切れ端、試作の耳、録音部品、紙コップの山。質屋の奥にしては騒がしすぎる光景なのに、なぜかちゃんと月椿堂の匂いがした。
「小さい子が抱いたとき、耳がここで当たる」
ディトが試作品を持ち上げる。
「だから綿の量、あと少し減らす」
「でも減らしすぎると、へたりません?」
クリストルンが聞く。
「そこで布を変える」
「布!」
横でヒューバートが古布を何枚も広げる。
「触った瞬間に安心するのは、こっち。けど見た目はこっちの方が椿っぽい」
「両方いいのが困る」
「困るのも大事よ。最後まで迷うのは本気の証拠」
レリヤは帳簿と原価表を前に、ぶつぶつ独り言を言っている。
「この部品、ロット変えれば少し落ちる。けど安全試験の回数は減らせない。そこ削ったら意味ない」
「レリヤさん、今すごく頼もしいです」
「今だけじゃ困るのよ」
ペトロニオは展示会用の紹介文を書いては消し、書いては消していた。
「親子の声をつなぐ、だと固い。言えない一言を預かる、だと重い。ううん……」
「珍しく悩んでるね」
「今回は言葉でごまかせないから」
夜が深まるころ、クリストルンはようやく肩を回した。
奥座敷の障子の向こうでは、質屋の店先がもう暗い。けれど作業台の上だけは、小さな昼みたいに明るかった。
少しだけ外の空気を吸おうと廊下へ出ると、ルチノが湯気の立つ紙コップを二つ持って立っていた。
「休憩」
「命の水だ」
「ただのほうじ茶だ」
二人で縁側に腰を下ろす。
春の夜気はまだ冷たいが、作業場の熱を背中に感じると心地よかった。
「あと一週間か」
クリストルンが言う。
「短いね」
「短い」
「でも、たぶん間に合わせる」
「たぶんじゃなくて、間に合わせる」
ルチノらしい返しに、クリストルンは笑った。
「ねえ」
「ん」
「終わったら、ちゃんと寝たい」
「それは俺も同意する」
「あと、甘いもの食べたい」
「それも同意する」
他愛ない話をしているだけなのに、肩の力が抜けていく。
今はまだ、告げたいことも、聞きたいことも棚上げのままでいい。隣に同じ方を見る人がいる、それだけで十分な夜だった。
廊下の奥で、モンジェの咳払いが聞こえる。
退院したばかりの父は、無理するなと言われながら、結局じっとしていられず、電話であれこれ指示を飛ばしていた。
「糸、最後に引きすぎるなよ!」
奥から声が飛ぶ。
「分かってる!」
クリストルンが返す。
「分かってない声だな!」
ルチノが小さく笑った。
「元気だな」
「元気すぎて困る」
けれど、そのやり取りの奥にある安堵を、クリストルンはちゃんと知っていた。
父がいる。声が届く場所にいる。もう、それだけで頑張れる夜がある。
作業場へ戻る前、クリストルンはふと空を見上げた。
雲の切れ目に、細い月がかかっている。
「一週間で、ちゃんと届くものにする」
独り言のようにつぶやくと、隣でルチノが答えた。
「一緒に作る」
短い言葉が、やわらかく胸に残る。
展示会まで七日。
追い込みの日々は苦しいはずなのに、今だけは、その苦しささえ未来へつながって見えた。