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展示会前日の夜、月椿堂の奥座敷には、いつもより深い静けさが落ちていた。
誰もが手を動かしているのに、息をひそめているような静けさだった。
作業台の上には、完成寸前の「椿のリボン」が並んでいる。
丸い耳。やわらかな胴。抱いた腕の中にすっと収まる重さ。胸の奥には、小指の先ほどの録音ボタンがきちんと収まっていた。
「最後の縫い目だけは、俺がやる」
そう言ったモンジェに、全員の手が止まった。
「病み上がりですよ」
エマヌエラが眉をひそめる。
「病み上がりだからだ」
モンジェは大きな手を軽く振った。
「この針を、もう一回持てるうちに持っときたい」
ディトが短く息をつく。
「無理したら、今度は縫う前に倒れる」
「倒れたら、そのときはおまえが引っ張り起こせ」
「面倒なこと言うな」
「頼れる男に頼んでるんだよ」
ぶっきらぼうなディトの口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
モンジェは椅子に腰を下ろし、試作品を膝に乗せた。
太くて節のある指に、細い針が収まる。その様子は不思議なくらい自然で、クリストルンは思わず息を止めた。
自分の父は、質屋の店主だった。
荷物を受け取り、査定し、汚れた品を磨き、持ち主の事情に耳を傾ける人だった。
けれど今、目の前にいるのはそれだけではない。
布の目を読み、綿の詰まり方を指先で量り、針の通り道を迷わず決める、職人の手だった。
「お父さん」
「なんだ」
「かっこつけてる?」
「娘の前でくらい、つけさせろ」
豪快に返した声のわりに、縫い進める手はひどく繊細だった。
一針。二針。強く引きすぎず、ゆるめすぎず。糸が布になじんでいく。
ルチノが隣で小さく言う。
「……本物だな」
「うん」
それだけで十分だった。
最後の一針を入れたあと、モンジェは糸を切り、そっと耳を撫でた。
「これでいい」
その声は大きくないのに、奥座敷の隅までまっすぐ届いた。
クリストルンはくまを受け取り、胸に抱く。
あたたかかった。もちろん布が温かいわけではない。父の手を渡ってきた、そのぬくもりが残っている気がした。
「ありがとう」
思わずこぼれた言葉に、モンジェはわざとらしく顔をしかめる。
「そんな顔するな。まだ完成じゃない」
「え」
「これを、おまえが人に届くところまで持っていって、初めて完成だ」
大きな声の奥で、気弱なところがまた少し顔を出している。
けれど今のクリストルンには分かった。その弱さごと、この人は父で、この人の手が自分をここまで連れてきた。
作業台のライトの下で、最後の一体が静かに並べられる。
父の針が入ったそのくまは、ようやく胸を張ったように見えた。
空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙