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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
翌朝、ルチノは役員会議室の扉を、ノックもそこそこに開けた。
長机の向こうで、エドワインが書類を整えている。白い指先が止まり、顔だけが上がった。
「会議前よ」
「だから来た」
「珍しいわね。いつもは時間に忠実なのに」
「今日は、時間を守るより先に止めることがある」
ルチノは会議資料を机に置いた。
そこには、今朝発表された新商品の概要と、クリストルンが書き続けてきた試作記録の比較が並んでいる。
「これを進める気か」
「進めるから発表したの」
「分かっていて、よく言えるな」
エドワインは椅子の背に静かにもたれた。
「感情論なら外でして」
「これは現場の話だ」
「現場だけ見て会社が回るなら、苦労しない」
ルチノの眉がぴくりと動く。
「回すために、人のものを上から塗り替えるのか」
「人のもの?」
エドワインは淡く笑った。
「会社で出た案は、会社のものよ」
「なら二十年前も、そうやって飲み込んだのか」
空気が変わった。
会議室の隅にいた補佐の社員たちが一斉に息をひそめる。
エドワインは笑みを消した。
「その話を、ここで持ち出すの」
「今だからだ」
「父を困らせたいだけなら、やめなさい」
「父さんを困らせたくて来たんじゃない。おまえを止めに来た」
兄妹ではない。同じ家で育った姉と弟でもない。
会社の中で役割を割り振られ、どちらがより重く背負えるかを競わされてきた二人の顔だった。
ルチノは一歩近づく。
「おまえの商品には、声が入ってるだけだ」
「何が違うの」
「待ってる時間がない。泣いてる子どもがいない。言い直す親の手も震えてない。あれは、玩具の形をした報告書だ」
エドワインの目が鋭くなる。
「きれいごと」
「きれいごとで作ってない」
「じゃあ何。あの娘に肩入れしてるだけ?」
ルチノは即座には答えなかった。
それが、かえって本音をにじませた。
「……肩入れしてる」
低い声で、けれどはっきりと言う。
「でもそれだけじゃない。間違ってるからだ」
エドワインは目を伏せ、書類の角を揃えた。感情を整える癖なのだと、ルチノは知っている。
「あなたは昔からそう。正しい方に立ってるつもりで、人の温度を信じない」
「信じたくても、信じて守れなかった人を見てきた」
「だから先に切るのか」
「切らなきゃ会社ごと落ちるときがある」
会議室の時計が小さく鳴る。
もうすぐ他の役員が来る時間だ。
ルチノは最後に言った。
「今日、止める」
「できると思う?」
「やる」
扉へ向かいかけた背中に、エドワインの声が飛ぶ。
「ルチノ」
振り返ると、姉は書類を手にしたまま、珍しく少しだけ疲れた顔をしていた。
「勝ったつもりで来ないで。私は、負けたら終わる場所で立ってきたの」
その一言だけが、会議室に残った。
社内対決は、もう始まっている。