テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
翌朝、ルチノは役員会議室の扉を、ノックもそこそこに開けた。
長机の向こうで、エドワインが書類を整えている。白い指先が止まり、顔だけが上がった。
「会議前よ」
「だから来た」
「珍しいわね。いつもは時間に忠実なのに」
「今日は、時間を守るより先に止めることがある」
ルチノは会議資料を机に置いた。
そこには、今朝発表された新商品の概要と、クリストルンが書き続けてきた試作記録の比較が並んでいる。
「これを進める気か」
「進めるから発表したの」
「分かっていて、よく言えるな」
エドワインは椅子の背に静かにもたれた。
「感情論なら外でして」
「これは現場の話だ」
「現場だけ見て会社が回るなら、苦労しない」
ルチノの眉がぴくりと動く。
「回すために、人のものを上から塗り替えるのか」
「人のもの?」
エドワインは淡く笑った。
「会社で出た案は、会社のものよ」
「なら二十年前も、そうやって飲み込んだのか」
空気が変わった。
会議室の隅にいた補佐の社員たちが一斉に息をひそめる。
エドワインは笑みを消した。
「その話を、ここで持ち出すの」
「今だからだ」
「父を困らせたいだけなら、やめなさい」
「父さんを困らせたくて来たんじゃない。おまえを止めに来た」
兄妹ではない。同じ家で育った姉と弟でもない。
会社の中で役割を割り振られ、どちらがより重く背負えるかを競わされてきた二人の顔だった。
ルチノは一歩近づく。
「おまえの商品には、声が入ってるだけだ」
「何が違うの」
「待ってる時間がない。泣いてる子どもがいない。言い直す親の手も震えてない。あれは、玩具の形をした報告書だ」
エドワインの目が鋭くなる。
「きれいごと」
「きれいごとで作ってない」
「じゃあ何。あの娘に肩入れしてるだけ?」
ルチノは即座には答えなかった。
それが、かえって本音をにじませた。
「……肩入れしてる」
低い声で、けれどはっきりと言う。
「でもそれだけじゃない。間違ってるからだ」
エドワインは目を伏せ、書類の角を揃えた。感情を整える癖なのだと、ルチノは知っている。
「あなたは昔からそう。正しい方に立ってるつもりで、人の温度を信じない」
「信じたくても、信じて守れなかった人を見てきた」
「だから先に切るのか」
「切らなきゃ会社ごと落ちるときがある」
会議室の時計が小さく鳴る。
もうすぐ他の役員が来る時間だ。
ルチノは最後に言った。
「今日、止める」
「できると思う?」
「やる」
扉へ向かいかけた背中に、エドワインの声が飛ぶ。
「ルチノ」
振り返ると、姉は書類を手にしたまま、珍しく少しだけ疲れた顔をしていた。
「勝ったつもりで来ないで。私は、負けたら終わる場所で立ってきたの」
その一言だけが、会議室に残った。
社内対決は、もう始まっている。