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ℝ𝕒𝕟
269
こぬぬー(響)
120
昼休みのあと、教室の空気は重く沈んでいた。
騒ぎが一度引いたあとの湿った静けさが、そのまま机の間に滞っている。
窓は開いているのに風は入らず、外の明るさだけが場違いに差し込んでいた。
五限のチャイムが鳴り、教師が入ってくる。
手にはプリントの束。
表情は最初から固い。
「提出物、出せ」
短く言う。その一言で全員が一斉に動く。
カバンに手が入り、紙の擦れる音が重なり、遅れないようにという意識だけが教室に広がる。
遥も机の中に手を入れる。
ノートの端に触れる。教科書をずらす。その下を探る。あるはずの紙がない。手を止める。もう一度同じ場所をなぞる。順番に確認する。それでも見つからない。
(入れたはずだ)
朝、確かに入れた記憶がある。折って、クリアファイルの中に。その感触まで思い出せるのに、指先には何も引っかからない。
探す動きだけが少し遅れる。
前の席が振り返る。
「まだ?」
声は小さいが、教室には十分届く。
「……ちょっと待って」
出した瞬間に分かる。その一言で流れが変わる。
「は?」
すぐに返る。
「出してないの?」
声が一段上がる。それに合わせて、教師の手が止まる。
「どうした」
「こいつ出してないっす」
迷いのない声で言われる。方向が決まる。視線が集まる。
「……今、探してます」
言いながら分かっている。もう探している側ではなく、出していない側に移されている。
「期限いつだ」
教師が言う。
「今日です」
別のやつが答える。
「昨日言ったよな」
視線が落ちる。遥に。
「……すみません」
それしか出ない。
「すみませんで済むと思ってるのか」
距離が一歩詰まる。
「全員分揃わないと意味ないんだよ」
その言い方で範囲が広がる。遥一人の話で終わらなくなる。
「は?」
後ろから声が上がる。
「巻き込まれんの?」
「だる」
ざわつきが一気に広がる。
「なんでこいつのせいで全員なんですか」
誰かが言う。教師はわずかに間を置く。
「連帯責任だ」
それで固定される。空気が一方向に傾く。
「最悪なんだけど」
「ちゃんとやれよ」
「迷惑」
言葉が重なる。全部、遥に向く。
遥はもう一度机の中を見る。ノートをどかし、教科書をめくり、奥まで手を入れる。それでも何もない。
(なんでない)
答えは出ない。
「探してるフリ?」
笑いが混じる。
「どうせやってないだろ」
否定する余地は残っていない。言葉にしたところで変わらない位置まで来ている。
教師が手を叩く。
「いいか」
教室が静まる。
「今日中に出せないやつが一人でもいたら、全員再提出な」
一瞬の間のあと、ざわめきが弾ける。
「は?」
「意味わかんねえ」
「ふざけんなよ」
その全部が、そのまま遥に向く。
「お前のせいじゃん」
「マジで何やってんの」
机を蹴られる。横から。強く。音が響く。
「ちゃんと管理しろよ」
「ほんと使えねえ」
言葉が止まらない。
「……ごめん」
また出る。
「それで済むと思ってんの?」
即座に返される。
「俺らやり直しなんだけど」
教師は見ている。止めない。視線は外さないが、介入もしない。その状態がそのまま許可になる。
後ろからノートが投げられる。肩に当たる。紙の角が当たり、じわっとした痛みが残る。
「探せよ」
「絶対どっかあんだろ」
笑いながら言う。
机の中身が引き出される。勝手に。ノートもプリントも全部。床に落ちる。
「ほら」
「ちゃんとやれよ」
踏まれる。紙が。靴底で押しつけるように。
遥はしゃがむ。拾う。手を伸ばす。
その上から踏まれる。手ごと。
「遅いって」
力がかかる。
「さっさと動けよ」
足はどかない。わざと体重を乗せたままにする。
教師は見ている。何も言わない。
「ほら、言えよ」
誰かが言う。
「全員に」
「ちゃんと」
笑いが混じる。
「お前のせいでこうなってます、って」
視線が全部集まる。逃げ場はない。
喉が詰まる。乾いている。それでも言わなければ終わらない形にされている。
「……ごめん」
出る。
「それで?」
すぐに返る。
「それだけ?」
詰められる。
「お前のせいでどうなってるか、分かってんの?」
言葉を続けさせる流れになる。
「……全員、やり直しで」
途切れながら出す。
「誰のせいで?」
被せられる。
「……俺のせいで」
言い直す。
「ちゃんと」
「主語つけろよ」
笑いが混じる。
喉が引っかかる。それでも押し出す。
「……俺のせいで、全員やり直しになってる」
言い終わる。
一瞬だけ間ができる。
その直後、後ろから椅子がぶつけられる。膝の裏に当たり、体が前に崩れる。手をつく。
「ちゃんと立って言えよ」
上から言われる。
立ち上がろうとする。肩を押される。
「まだ終わってないから」
低く言われる。
「“ごめんなさい”で終わると思ってんの?」
「軽すぎ」
「責任って分かってる?」
言葉が重なる。
教師は見ている。止めない。そのまま続けさせる。
「どうやって責任取んの?」
笑いながら言う。
答えは用意されていない。
「言えって」
背中を蹴られる。前に崩れる。手のひらが床に当たる。さっき踏まれた場所にまた力がかかる。
「……どうすればいい」
出る。
「は?」
すぐに返る。
「自分で考えろよ」
「それが責任だろ」
逃げ道はない。
「一人でやれよ」
「俺らの分も」
重なる。
「今日中に終わらせろ」
「終わるまで帰るな」
条件が積まれる。
「分かった?」
圧がかかる。
「……分かった」
出す。
「ちゃんと」
「はいって言えよ」
「……はい」
小さく出る。
「聞こえない」
「……はい」
言い直す。
それで少しだけ緩む。
だが終わらない。
机を蹴られる。横から。紙がまた床に広がる。
「拾えよ」
言われる。
遥はしゃがむ。拾う。
その動きに合わせて、また足が乗る。手の上に。ゆっくり体重がかかる。
「遅いって」
笑い。
教師は見ている。何も言わないままプリントを整える。
「続きやるぞ」
それで区切られる。
終わったことにされる。
だが終わっていない。床に散った紙も、踏まれた跡も、手の上の重さも、そのまま残っている。
ここでは、謝ることは終わりにならない。次に進むためのものでもない。ただ、さらに続けるために使われるだけで、一度向いた方向は変わらない。
理由は関係なく、当てはまった側がそのまま固定される。
コメント
1件
読み終えたわ。 この空気感、めっちゃリアルで胸が詰まる…。 提出物がないだけでここまで追い詰められるって、しかも教師が止めないのも含めて「学校あるある」の怖いとこ突いてる。 机から引出し勝手に開けられて、手を踏まれるシーンが特にキツかった。 謝っても謝っても終わらないループ、読んでて息が苦しくなった。 次、遥がどう動くのかすごく気になるわ。