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忘れたいのに忘れられない、あの泥酔事件から数日後のこと、その日私は凛のもとを訪ねていた。
開店前の店内に、オネエサンたちの姿はまだない。紆余曲折を経験した凛だったが、今ではスナックを経営している。伯父たちは複雑な気持ちながらも、凛の気持ちと生き方を尊重し、応援しているらしい。
私たちの仲が良いのは相変わらずだったが、さすがに先日のことでは温厚な凛も怒っているに違いないと、ここに来てからの私は背を丸めて小さくなっていた。迷惑をかけたお詫びとして手土産に持参したのは、彼の好物のシュークリームだ。
「凛ちゃん、ほんっとうに、この間はごめんなさいっ……。あの、これ、お詫びといいますか、お店の皆さんの分もあるので、食べてください」
凛は嬉しそうに私の手から箱を受け取った。
「ありがと。後でみんなで頂くわね」
凛は箱をカウンター奥の冷蔵庫に入れて戻って来ると、私の隣に腰を下ろす。
「さて、それで?あの日は結局なんだったの?酔っぱらいは普段から見慣れているけど、あんな瑞月ちゃんを見たのは初めてだったから、さすがに驚いちゃった」
「本当に、申し訳ありませんでした……」
私は深々と頭を下げた。
「これに懲りて、今後は気をつけなさい。それよりも聞きたいのは理由ね。ま、予想はついているけどね。でも、言いにくいことならあえて聞かないわ」
私はのろのろと顔を上げた。
「言いにくいというか……。諒ちゃんからは、何も聞いていない?」
「諒?別に何も。あの日だいぶ遅くなってから、無事に帰ったから、っていう簡単な連絡をもらっただけよ」
「そう……」
私が泥酔した理由も、あの夜私と諒の間に起こったことも、凛は知らないということだ。迷惑をかけたのだから、泥酔した理由くらいは伝えておこうと考える。
「あの日ね、別れたばかりだったんだ。付き合っていた人と……」
「まぁ、やっぱり?」
凛は綺麗なまつげに縁どられた目を見開いた。
「あの時瑞月ちゃんを見て、あれって思ったのよね。栞ちゃんの二次会で会った時、すごく幸せそうな顔してたのに、おかしいな、って。確か、あれからまだ二か月くらいしかたっていないわよね?」
「……浮気されたの」
凛は目を瞬かせた。
「あらあらあら。よく聞く話ではあるけれど……。その男、どうしてそんなことしちゃったのかしらねぇ。こんなに可愛い彼女がいるっていうのに。でもさ、いいお勉強になったとでも思って、早く忘れちゃいなさい。男はその人だけじゃないし、いつまでも引きずって、貴重な時間を無駄にする必要はないんだからね。それにしてもほんとその男、おばかさんよね。瑞月ちゃんを裏切るようなことしちゃってさ。こんなにいい子、滅多にいないっていうのに。ずいぶんともったいないことをしたものね」
流れるような凛の言葉を聞いているうちに、先日飲んで忘れようとした時よりもはるかに気持ちが上向いてきた。私は従兄に笑顔を見せる。
「凛ちゃんのおかげで元気が出てきた。ありがとう。それにしても凛ちゃんは、私のことを買い被りすぎよ」
「あら、だって事実だもの」
凛はふふっと笑い、それから眉根をわずかに寄せた。
「ところで、瑞月ちゃん。あの後は本当に大丈夫だったのよね?だいぶ飲んでたでしょ?気持ち悪くなったりはしていないかしらって、心配だったの。一緒にいてあげられなくて、ごめんなさいね。瑞月ちゃんを送った後、諒は少しくらい一緒にいて、様子を見ていてくれた?それとも、すぐに帰っちゃったのかしら?」
私はどきりとした。従兄の顔を直視できず、何気なさを装ってテーブルの上に視線を落とす。
「え、あぁ、うん。えぇと、大丈夫だったよ。そこまでひどい状態にはならなかったから、諒ちゃんも別にそこまでは……」
たどたどしく話しているうちに、諒との夜のことが頭に浮かんできた。結局、私は最後まで諒に抵抗できなかった。一度ならず二度も彼に抱かれ、痴態すら晒してしまった。そんな恥ずかしい話を、それこそ身内の凛には絶対に知られたくない。話題を逸らさなければと思っていると、凛が怪訝な声で私の名を呼んだ。
「ねぇ、瑞月ちゃん」
「は、はい?」
びくりとして、声が裏返ってしまった。
恐る恐る目を上げて見た凛は、私をじっと凝視していた。
「諒と何かあった?」
私は焦った。短く「ないよ」とでも答えれば良かったものを、早口で否定の言葉を繰り返してしまう。
「な、ないよないよ、何もないよ」
「何もなかったんなら、どうしてそんなにムキになってるの?逆に怪しいんだけど」
凛はまじまじと私を見つめていたが、ふっと表情を和らげて微笑んだ。納得したような顔つきでこくこくと頷く。
「別にいいと思うわよ。行きずりはまずいけど、二人は知らない仲じゃないし、もう大人なんだから。それに、瑞月ちゃんはもう恋人と別れたわけで、諒だって付き合っている人はいない。二股でもないし、浮気でもない。うん、全然ありよ。わたしとしては、むしろ二人をお祝いしてあげたいくらいだわ」
「え、いや、あの、そういうんじゃ……」
私と諒の間に何が起こったのかを、凛は察したようだ。それは事実ではあるけれど、そういうことはなかったと否定しておきたい。諒に口止めされてはいないのだからと自分を正当化して、私は凛に事情を話す。
「あのね、ここだけの話だよ。諒ちゃんが女の人に付きまとわれているらしいの。困ってるんだって。だから頼まれたの。彼女のふりをしてくれないかって」
話し終えた途端、凛の表情が固まった。
彼は二、三度瞬きをした後、こめかみの辺りを抑えながら訊ねる。
「ちょっと待って。今、なんて言ったの?彼女の、フリ?」
まるで意味が分からないと言いたげな顔で、彼は何度か瞬きを繰り返した。しかし最後には深く長いため息を吐き出して、呆れ声を出す。
「……あの人は、いったい何を考えているのかしら。まったくもう、信じられないったら……。どこまでこじらせるつもりなのよ」
「何をこじらせるって?」
「あ、うぅん。こっちの話」
凛は私の疑問をさらりと流し、ぶつぶつと意味深な言葉を口にする。
「こういうことは他人が口を出しちゃうと、ますますややこしくなるものね。私は黙って見守ることにしましょ。それにどのみち、物事は成るようにしかならないだろうし」
何を言っているのか、分からなかった。その意味を訊ねようと私は口を開こうとした。
しかしそれを制するように、凛はにっこりと笑う。
「つまり、瑞月ちゃんはそのままでいていい、って話」
「ん……?」
「とりあえず、今度は諒と一緒にいらっしゃい」
凛は含みのある顔でふふっと笑った。
「さて、そろそろ皆来る時間だわ。瑞月ちゃん、どうする?少し飲んでく?……と言っても、今日はウーロン茶しか出してあげないけど」
私は赤面して首を横に振る。
「いえ、今日は帰ります」
「それがいいわ」
凛はくすくすと笑った。
彼に見送られて私は店を出た。今日はもちろん寄り道をせずにまっすぐ帰路に着く。あの日のような失敗はもう懲り懲りだ。