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第5話 壁の向こうの息
ある夜、日野澪が寝ようとした瞬間、
壁の向こうから、低く深い息づかいが聞こえた。
人間のそれよりも重く、どこか熱を帯びている。
「……また、誰か来たのね」
二色の扉の新しい住人は、自らを“ドラゴン”と名乗った。
翌朝、澪は挨拶をしようと扉をノックした。
しかし、返ってきたのは低い声。
「会う必要はない。ただ、壁を感じていてくれ」
その声は、地の底から響くように穏やかだった。
澪は思わず苦笑した。
「変な人ばかりね、このアパート」
その日から、夜になると壁の向こうに“気配”が生まれた。
熱を含んだ空気が伝わり、澪の部屋の温度が少しだけ上がる。
不思議と、その熱が心地よかった。
夢の中で、澪はその“声”の主と出会った。
灰色の鱗が月明かりを反射し、瞳は紫に光る。
その姿は恐ろしいほど美しかった。
彼は自分の尾で地面を撫でながら言った。
「きみは、怖くないのか」
「いいえ。あなたの声、寂しそうだから」
彼は目を細め、少しだけ笑った。
「もう長くいられない。
人の形を失えば、扉が自分を拒む」
澪はその言葉に胸が締めつけられた。
夢だとわかっているのに、涙が頬を伝う。
「だったら、せめて話をして。
眠る前に、声を聞かせて」
その夜以降、壁越しに小さな会話が続いた。
天気のこと、食事のこと、何気ない一言。
彼の低い声に包まれて、澪は眠りにつく。
一週間が過ぎた夜、息づかいが途絶えた。
壁を叩いても、もう何も返らない。
二色の扉は半分灰色に変わり、
澪の部屋の空気も冷たくなった。
翌朝、夢の中でまた彼が現れた。
もう半透明になり、輪郭が滲んでいる。
「ありがとう。きみの声で、最後の夜があたたかかった」
彼の鱗が光の粒になり、風に溶けた。
澪は目を覚まし、枕を握りしめた。
壁にそっと手をあてると、まだわずかに熱が残っていた。
そのぬくもりを恋だと気づく頃、
扉の紫は完全に消えていた。