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十月四日の朝、朝風通りは晴れているのに空気だけが重かった。花屋の前へ荷を下ろしに来たエルドウィンが、台車の取っ手を握ったまま、いつもより一拍長く黙ったからだ。
「何かあった?」
ハヤが声をかけると、エルドウィンは荷札を見ながら答えた。
「勤め先に、新しい物流契約の話が来た」
「いい話なら、そういう顔しない」
オブラスが店の奥から出てくる。
エルドウィンは少しだけ眉を寄せた。
「条件はいい。白群リゾートの施設搬入をうちがまとめて受ける。その代わり、商店街の催しの手伝いは優先度を下げろって」
ドゥシャンが箒を止めた。
「それ、祭りの荷物も減らせってこと?」
「はっきりは言ってない。けど、そういう意味だろうな」
花屋の店先に、秋の風がひとつ抜けた。入口に吊るしてあった細いリボンが、かすかに鳴る。
白群は真正面から反対してきたわけではない。もっと柔らかく、もっと断りにくい形で、足元からほどきに来ている。
その日の昼には、別の話も入った。商店街の乾物屋へは“将来のテナント協力金”、旅館へは“優先改装枠”、雑貨屋へは“制服監修の名誉職”。名前は立派だが、どれも同じだった。町の店を、一軒ずつこちら側から剥がしていくやり方だ。
「正面から殴ってこないのが、いちばん面倒だな」
アンネロスが焼き菓子の天板を置きながら言う。
「殴られたら怒れるものね」
ハヤが小さく返す。
「そう。これは“いい話です”って顔で包丁を置いてくるやつ」
夕方、花屋の裏口会議はいつもより人数が多かった。揺れている店主たちが、言い訳半分、相談半分で集まってきたからだ。
「うちみたいな小さい店が残れるなら……」
「名前も看板も残すって言ってた」
「でも仕入れ先は本部指定なんでしょう」
オブラスが資料を机へ置く。「看板が同じでも、中身が違えば別の店です」
誰もすぐには返事をしない。
その沈黙を破ったのは、意外にもエルドウィンだった。
「俺は、うちの会社の条件を断るかどうかはまだ決めてない」
その言葉に、空気がぴんと張る。
けれど彼は逃げなかった。
「でも、黙って受ける気はない。祭りの荷を運ばないって決めるなら、先にここで言う」
ハヤはそのまっすぐさに、少し息を吐いた。揺らぐこと自体は悪ではない。何も言わず、流されることがいちばん怖いのだと分かる。
夜、閉店後の花屋で、ハヤは売れ残りの枝物を水揚げしながらガラス戸の外を見た。朝風通りの向こうで、白群の担当者が誰かと笑っている。遠くて声は聞こえないのに、その笑顔だけがひどくはっきり見えた。
商店街は一つの坂だ。誰かの足が滑れば、隣も踏ん張りにくくなる。
切り崩されているのは、建物ではない。人の覚悟のつなぎ目なのだ。
「明日、資料を配り直す」
オブラスが帳簿を閉じる。
「数字で見せる。今どれだけ戻しているか、今どれだけ失うか」
ハヤはうなずいた。
店の奥では、甘い名札の紙が乾いている。まだ守るべきものは、十分に手の届く場所にあった。
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