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笑いが落ち着いたあとも、誰も椅子を立たなかった。
さっきまで聞こえていた川の音が、急に近くなったように思える。裸電球の下に浮く皆の顔は、どこか妙に正直だった。ごまかせないものを見たあとの顔だと、サベリオはぼんやり考える。
最初に目元をこすったのは、ヌバーだった。
「いや、これは違う」
彼は誰にも聞かれていないのに弁明を始める。
「橋の下って乾燥するから」
「湿ってる場所で何言ってるの」
ホレが即座に返す。
「じゃあ湿度で涙が呼ばれた」
「ますます意味分からない」
そのやり取りの最中に、ミゲロが顔を横へ向けた。大きな手の甲で目の下をさっと拭う。いつも誰かの壊れたものばかり直している男が、あからさまに涙を隠そうとしていて、モルリが目を丸くした。
「え、ミゲロ泣いてる?」
「泣いてない」
返事は早かった。
「ちょっと、目に木くずが」
「ここ今日、大道具切ってないよ」
ミゲロは黙る。黙ったまま、鼻だけ一度鳴らした。
その様子を見た途端、ヌバーが吹き出した。
「だめだ、そっちが泣くと無理」
自分も目を潤ませているくせに笑うから、橋の下の空気が涙と笑いでぐしゃぐしゃになる。ヴィタノフですら、口元をほんの少しだけ緩めていた。
デシアは台本を閉じる手を止める。
以前、古い写真を見た時に頬を伝った涙とは違う熱が、今は目の奥にある。
逃げたくて出た涙ではない。やっとここまで来たという実感に押し出された涙だ。
サベリオはそんな彼女に気づき、でも何も言わない。代わりに、自分の膝の上に置いた台本の角を親指でそっとなぞる。
「今の、二回やったらどうなると思う」
ジャスパートが不意に言った。
「二回目の方が泣く」
モルリが即答する。
「いや、違う」
ジャスパートは首を振る。
「二回目は、泣く場所がずれる。今は台詞にやられてるけど、その次は間に来る」
パルテナが腕を組み直す。
「分かる。言葉じゃなくて、黙ってる方にやられるやつ」
サベリオは居心地悪そうに笑った。
「分析されると急に恥ずかしい」
「される側になったんだから慣れて」
デシアが言う。
その言い方が少し柔らかくて、サベリオは返事に詰まる。
ヌバーはそれを見逃さない。
「おやおや」
「今のは違うから」
サベリオが早口になる。
「何が違うの」
モルリまで乗ってくる。
「全部」
「雑」
笑いがもう一度広がった時だった。
ホレの携帯が震える。
彼女は確認した瞬間、表情を変えた。さっきまでの熱を冷ますような、現実の顔になる。
「……天気予報、更新された」
全員の視線が集まる。
ホレは画面を見たまま言う。
「満月当日、豪雨。降水量、かなり強い」
橋の下が静まり返った。
モルリが口を半開きにする。
「通り雨じゃないってこと?」
「全然」
ホレは短く答える。
「本降り。たぶん、逃げ場が足りないくらい」
ジャスパートがすぐ天井を見上げた。
橋桁。配線。電源の位置。濡れた時の響き。
彼の頭の中で、舞台ではなく災害対策の音が鳴り始めたのが分かる。
グルナラは帳簿を引き寄せる。
「雨対策の養生、照明保護、客席導線、全部組み直しだね」
「うそでしょ」
ヌバーが頭を抱える。
「泣いた直後に現実くるの、空気読んでほしい」
「空は読まないでしょ」
パルテナが言う。
サベリオはゆっくり立ち上がった。
さっきまで胸を掴んでいた熱が、今度は別の緊張に変わっていく。けれど不思議と、足は引かなかった。
「じゃあ、豪雨でやれる形に変える」
彼は言った。
「通り雨じゃ済まないなら、最初からそのつもりで組む」
デシアが頷く。
「うん。雨に負けない話じゃなくて、雨の中でも届く話にする」
その言葉を聞いて、ミゲロがゆっくり顔を上げた。
「なら、まだ直せる」
時計塔の針が、どこかで一つ進む。
泣いたあとにやって来た現実は冷たかったが、橋の下にいる誰も、もう席を立たなかった。