その頃奈緒は秘書室で帰る支度をしていた。
今日恵子はデートがあるといって一番先に退社した。そしてさおりも歯医者があるからと先ほど部屋を出た。
奈緒は特に急ぐ用事もないので、ゆっくりと帰る準備をしている。
今日は久しぶりにデパ地下へ寄って、美味しい物を買って帰ろうと思っていた。
机の上の私物をバッグにしまっていると、ノックの音が響いた。
「はい」
奈緒が返事をすると、一人の男性社員が入って来た。あまり見た事のない顔だ。
「技術統括本部の三上です。帰り際にすみません」
三上はそう言って奈緒の傍まで来る。
「何か急ぎのご用でしょうか?」
「特に急ぎではないのですが、深山さんが出張から戻られましたらこれをお渡しいただけますか?」
「承知しました。深山は月曜に出社しますので、それまでこちらでお預かりしておきますね」
奈緒は書類を受け取ると、すぐに鍵付きの引き出しへしまう。
用が済んでも三上が部屋を出る気配がないので、奈緒は三上を見上げる。
すると三上はニッコリと奈緒に微笑んだ。
改めて見ると、三上はかなりイケメンだった。
身長は175センチくらいのスラリとした体型。パッチリした瞳に長い睫毛が見える。明るく染めた髪はサラサラのストレートで、パッと見たイメージは人気アイドルグループの一人に似ている。
その時奈緒は思い出した。社内で何度か三上を見かけた事を。
奈緒が見た三上は、自動販売機横の休憩スペースでいつも女子社員達に囲まれていた。
(あ、あのモテモテの人だわ……)
技術統括本部の主任は、技術職の中ではかなり高い地位にある。つまりエリートだ。
さおりと恵子に聞いた話では、三上は女子社員達から『白馬に乗った王子様』と呼ばれているらしい。
(たしかにアンニュイな雰囲気で王子様っぽい)
奈緒がそんな風に思っていると、三上が言った。
「麻生さんはKDSDから転職してきたんですよね? KDSDの営業推進本部にいた寺田(てらだ)ってご存知ですか?」
懐かしい名前を聞いて奈緒はびっくりする。
「寺田さんですか? 知ってます。えっ? もしかして三上さんのお知り合いですか?」
「はい。僕と寺田は大学が同期なんですよ」
「そうでしたか。たしか寺田さんは私より五期上だったような……じゃあ三上さんも?」
「はい、36です」
「そうなんですね~。寺田さんは困っているとすぐに助けてくれて、まるでお兄さんみたいな存在でした」
「そういえば昔寺田と飲みに行った時、麻生さんの噂をチラッと聞いたんですよ。サポート力が抜群の妹みたいな女子社員がいるって」
「女子社員は他にもいっぱいいましたから、きっと私の事ではないと思いますよ」
「いや、確か『ナオちゃん』って言ってたから、麻生さんの事だと思います」
「もしそうなら、寺田さんに会ったらお礼を言わないと……」
奈緒は思わず微笑む。
話が一段落したところで、奈緒はそろそろ三上が出ていくのではと思ったが、一向にそんな気配はない。
奈緒はチラリと時計を見る。そろそろ出ないとデパートをゆっくり見る時間がなくなってしまう。
そこで奈緒は勇気を出して言った。
「あの、他にご用がないようでしたら、私そろそろ……」
「深山さんは今日北海道へ出張ですよね? だったら僕と一緒に食事でもいかがですか?」
奈緒は三上の突然の誘いに耳を疑う。
『偽装』とはいえ、奈緒はれっきとしたこの会社のCEOの恋人だ。その事は全社員が知っている。
もちろん三上も知っているはずだ。
しかし今三上は奈緒を堂々と食事に誘っている。常識では考えられない行為だ。
「ごめんなさい。この後友人と約束がありますので」
「それは残念だなぁ。じゃあいつならいいですか?」
「…………」
奈緒は絶句した。
一体三上は何を考えているのだろう?
「申し訳ありませんがお食事には行けません。すみません」
「そんなに深山さんがいいんですか?」
「え?」
「あの人の事がそんなに好きなんですか? 彼とは身体の相性もバッチリなんですか?」
その瞬間奈緒の顔がカァッと赤くなる。
なぜそんなぶしつけな質問をするのだろう? 奈緒は理不尽な思いでいっぱいになる。
それと同時に身体は怒りで震えていた。
しかし奈緒はなんとかその怒りを隠しながら言った。
「そのご質問に答える必要はないかと」
「あれ? もしかして怒らせちゃった? まあまあそんなにムキならずに。それとも僕と食事に行くと何かマズい事でもあるのかな? 例えば僕に心が揺らいでしまうとか?」
三上は自信満々に微笑む。
(ハァッ?)
普段は比較的穏やかな奈緒も、この時ばかりはムカッとした。
この男は手の施しようがないほどのナルシストなようだ。
確かに社内では『白馬に乗った王子様』として人気があるかもしれないが、奈緒には何の魅力も感じない。
元々奈緒は三上のような線が細過ぎるタイプは好きではなかった。
奈緒はどちらかというと、省吾のように適度に筋肉がついたワイルドなタイプが好みだ。
(あれ? 私今なんて?)
奈緒はつい動揺してしまう。
その時奈緒の脳裏には、海辺で初めて会った省吾の姿が思い浮かんだ。
その瞬間、奈緒は自分の気持ちに気づいてしまった。自分が省吾に対して好意を抱いているという事に……。